検察官から弁護士へ
逆に、今度は弁護士をやろうと思ったのは、何が一番大きかったですか。
それは、ご存じと思いますが、僕は不祥事〔詳しくは『検事失格』(毎日新聞社、2012年)参照〕をやって検察官を辞めさせられました。それで、もはやつぶしが利かないので弁護士になるしかないという感じです。もちろん、客観的に見れば法律家以外の職業を選択することもできたのですが、検察官の経験が多少は仕事に活かせるかもしれないと思ってのことです。
僕が検察官をやっているときは、今と比べると刑事弁護の全体の水準はまだそんなに上がっていなかったですね。被疑者国選弁護制度もない時代で、当番弁護がぼちぼちという頃です。
なので、検察官のノウハウをもっているほうが、刑事弁護では仕事が有利にできるかもしれない。経験が活きるのなら刑事かなと思って、刑事弁護をやろうと思いました。そういう意味では、弁護士になろうという強い動機づけはありません。
そうなんですね。現在は刑事弁護を中心にやっておられますが、民事もやるんですか。
一応やっています。たまに被害者の代理人もやりますが、主な仕事は刑事弁護です。被害者には検察官のときに散々尽くしてきましたので。
そういう見方もできますね。現在やっている刑事弁護という仕事の中で、これだけは守ろうとか、大切にしていることはありますか。
僕はあまりポリシーがあるほうではありませんが、なるべく罪を犯した人の言い分を聞いてあげることでしょうね。
言い分を聞くのは難しそうですね。
被疑者・被告人には、否認にせよ自白にせよ、必ずその人なりの言い分があります。このインタビューの最初の質問にも関わってきますが、罪を犯した人には理由、事情があります。だから、たくさん聞いてあげる。弁護士としての僕が理解できないと検察官や裁判官には理解させられないので、まず虚心坦懐に聞くことです。
その上で、その人の気持ちがわからないというか、共感できなかったとしても、ちゃんと聞いてあげる?
そうです。あまり言いたくはありませんが、罪を犯した人の中には最後の最後まで、どんなに時間をかけても共感できない人がいるのを、検察官時代に散々経験しました。そこはいい意味で諦めているというか、むしろ他人の気持ちが「わかる」ということ自体が傲慢かもしれません。お互いに違う人生を歩んできているので、「俺はあなたの気持ちがわかる」と言うことが、かえって目の前の彼・彼女を傷つける可能性もあると思います。
僕は検察官のときから、「俺にはあなたの言うことはわからない。でも、わかろうとはしている」という言い方を常にしていました。もちろん、それを言うと怒る人もいますが、安直に「わかった」と言うよりは……。
僕らは机の上で勉強ばかりしてきた人間なので、大多数の被疑者・被告人になる立場の人とは、なんだかんだで歩んできた人生が違います。これは、人を上下に置いているという意味ではありません。違いがあるという意味で、人を横に並べているだけです。そんな違いがある人の話を「わかった、わかった」と言うことが、僕はおかしいのではないかと思います。
裁判官も同じような立場ですか。
でしょうね。おそらく裁判官も、被疑者や被告人の本当の気持ちはわからないだろうから……。
刑事弁護をする際、被告人に「法廷ではこういうふうに言ったほうがいい」とアドバイスすることもあります。言うことの中身を教えるのはまずいですが、言い方そのものは助言します。被告人にはもちろん黙秘権があるので、「それは言わないほうがいいよ」という助言もします。
最近は、いろいろな物の考え方をしている人がいるので、僕には、安直に「お互いがわかり合っている」と言うのは無責任という感覚があります。それよりも「わからないけど、聞くことは大事だ」という気がします。
ちゃんと向こうの言い分を聞くという姿勢を大事にしている。
だといいんですけど、先方にアンケートを取ったらどうなるかわかりません。
僕は接見の時間が長いほうだと思います。一度行くと、大体は次からその人との接見が楽しくなります。30分ぐらいで用が済んでも、2時間いたりとか。仕事の効率は悪いですが、つい世間話をして帰るほうです。
なるほど。
先方に嫌な顔をされたことはないので、それなりに喜んでくれている可能性はあるでしょうね。
確かに、さっさと話を切り上げられると親身になってくれていると感じないですもんね。雑談していく中で、「あっ、自分の姿勢が伝わったな」と思うことはありますか。
うーん、わからないですね。ただ、来れば喜んでもらえることが多いので、そういう意味では、話し相手くらいにはなれているのではないですかね。説教は、あまりしたくありません。検察官時代に、そういう資格もないくせに説教ばかりしていたという反省があるので。
その被疑者が有罪であることが前提ですが、10日間とか20日間で人が反省することはありません。これは僕の堅い信念です。弁護人の務めとして、反省しているように聞こえる言い方には導きますが、本当の反省は彼・彼女が自発的に長い時間かけてやっていくべきものだと思います。反省は裁判のためだけにするものではないのです。
そうですね。本人にとっては一生の問題だと思います。
人間が反省するって大変なことだと思います。僕自身が検察官時代に不祥事をやっているので、「反省とは何か」は自分自身に突き付けられているテーマでもあります。不祥事を犯してからもう20年近く経っていますけど、自分ではそのつもりであっても、ちゃんと反省しているかと問われれば、それはわかりませんから。その意味では、僕も罪を犯した被疑者や被告人と同じなのです。
「反省しています」と言うことが反省ではありません。それが日頃の立ち居振る舞いとかに表れてくるかどうかです。それが起訴前の20日とか判決までの数か月とかで済むというのはおかしい。そういう意味では、日本の刑事司法はインチキばかりやっています。人が反省したふりをするセレモニーです。僕はそれを「反省司法」と勝手に言っています。日本人は謝罪と反省が大好きでしょう?
そうですね。「反省司法」という言葉は初めて聞きましたが、まさにそう感じます。
僕はそういうのが非常に不満です。謝罪したふり、反省したふりでも刑が軽くなるので、弁護人としてはやってもらいますが、本当の反省は、弁護人が助言できることではない気がしています。反省はすごく高度な営みで、おいそれと口に出せるものではないと、僕は思います。人に言いふらすものではなく、自分の心の中に密かに持っておくべきものです。
でも、少年事件は別です。短期間で少年の顔つきが変わります。そういう意味では、「少年の可塑性」という専門用語がありますが、あれは確かにそうです。僕の経験では、少年はちょっとの間で変わりますね。
(つづく)
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(2021年04月19日公開)