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毛利甚八

事件の風土記《4》

国家の保身のための生贄

福岡事件 その2


  • 若き日の石井健治郎氏
    福岡拘置所の中で撮られた若き日の石井健治郎氏の写真と現在、石井氏が使っている数珠。

 紀元前450年頃、ローマ帝国に「クレウス」という死刑の方法があったそうだ。罪人を、猿・犬・蛇と一緒に袋に詰め、生きながら海に投げ込むものだったという(マーク・グロスマン著『死刑百科事典』〔明石書店、2003年〕より)。

 蛇に怯えながら、鳴きわめく猿や犬と一緒に溺れ死ぬ。そのように人格を貶めることが罪を贖わせることであり、起こりうる犯罪の抑止となり、いい気味である、とローマ人は考えたのだろう。

 それにしても、法の下にこれほどの残酷を行うことが許されるとすれば、どのような罪を犯したにせよ、裁かれる者の過ちとは「権力の後ろ盾を持たずに、なにごとかをなした」ということになってしまう。

 福岡事件の西武雄はクレウスよりも残酷な刑を受けた。

 1947(昭和22)年に2人が殺されたこの事件で、石井健治郎と西武雄の2人が死刑囚となったが、西は現場にいなかった。石井は自分が拳銃を撃ったことを認めて、西は無関係であると主張した。にもかかわらず西に死刑判決が下されたのはなぜか? 

 第1に殺された2人のうち1人が華僑の大物であり、占領下の日本にあって事件が政治問題化する恐れがあった。よって厳罰が求められた。

 第2に被害者の2人と石井の間には何の面識もなく、厳しい罰を言い渡すにはストーリーが欠落していた。石井の主張を認めれば、取引のもつれで銃を取り出した被害者を、石井が誤って撃った事故になってしまう。現場にいなかった西は軍服の売買に関わっており、西を首謀者とし石井を殺人請負人としなければ強盗殺人の絵が描きにくいのである。

 《証人訊問のとき(法廷)、とくに中国人等(華僑を指す)に対してですが、その訊問方法に異議があります。と申しますのは、事件の真相を究めようとする場合、頭からこの事件は西の計画したものであると強く印象づけての訊問だったからです。そして証人がその証言をしぶったり、わからない素振りをしようものなら『これは、こうではないですか』ときき、それでも裁判長の思惑通りの証言でないと『それでは、このように思えるでしょう』と再三念を押される。(中略)証人は、同志が殺されているのですから感情としては私たちをよく思ってないのですから『そりゃ、そう思う』とか『そうではないかと思います』と答弁しますよ。(中略)そして裁判長はわが意を得た答弁を聞くと、得たりとばかり『そうですよ、西らが計画的に犯しているのですから』とくる》(西武雄の証言。古川泰龍『叫びたし寒満月の割れるほど』〔法蔵館、1991年〕より)。

 死刑判決によって事件に決着をつけるためには、西武雄を強盗殺人の首謀者にするしかない。西は国家の保身のための生贄であった。

 誤判わが怒りを天に雪つぶて

 叫びたし寒満月の割れるほど

 この2つの句は、西が獄中で詠んだものだ。この後、西は国家のさらに冷酷な顔を見ることになるが、まだそれを知らない。

 福岡拘置所の教誨師として2人の死刑囚と出会った古川泰龍は2人の死刑執行が迫っていることを知って、1961(昭和36)年から雪冤運動に身を投じた。家族8人の家計を支えながらの運動は困難をきわめた。もともと古川の求道の暮らしは豊かなものではなかったけれど、各地での講話の謝礼金さえも雪冤運動の資金となった。

 福岡で現地調査を行い、1963(昭和38)年には原稿用紙2000枚に及ぶ真相究明書を書き上げた。托鉢で得た資金で、ガリ版刷り300部を製本してみると、真相究明書は辞書のような分厚さになった。それを法務大臣が替わるごとに送り、宗教者や文化人に配って支援を求めた。

 古川の妻は資産を切り売りし、借金をして古川を支えた。家賃をとるつもりで貸した旅館の賃料が不払いとなった不運が貧しさを加速させた。水道代や電気代が払えない。支援者の客を迎えて食事を出しても、古川本人の食事を作る金がない。

 雪冤運動のために東京に出た古川を熱心に支援する人があった。運動の拠点として自宅を提供し、古川の世話を焼いたその人は、理由を尋ねられて「古川先生の貧乏に惚れました」と答えたという。

 1966(昭和41)年春、古川は国会請願托鉢行脚を行う。雪冤を訴えながら托鉢を続け、熊本から東京まで21日をかけて辿り着いた。その結果、福岡事件が国会で初めて取り上げられ、さらに、再審を見直す法案提出へとつながっていく。

 国会議員の神近市子を中心に議員立法で提案されたのは『死刑の確定判決を受けた者に対する再審の臨時特例に関する法案』と言った。占領下の1945(昭和20)年9月2日から1952(昭和27)年4月28日に公訴され、死刑が確定した者のうち執行がされてない者の再審の理由を緩和し、再審を受けやすくしようという内容であった。日本弁護士連合会が法案成立の要望書を国会に提出するなど、法案成立の気運が高まる1969(昭和44)年夏、当時の西郷法務大臣は法案に代えて恩赦を積極的に運用すると発言した。

 古川泰龍は法務大臣の言葉を信じた。

 《恩赦不詮議で死刑執行近しと怯えて運動に狂奔して8年目、遂に死刑執行を阻止し得たということで、その安堵感と喜びは大きかった》(引用同前書)。

 それから5年後の1975(昭和50)年6月17日、石井健治郎は恩赦によって無期懲役に減刑された。石井は拘置所職員から無期になったことを報されると同時に、自分が無期となった同じ日、西武雄に死刑が執行されていたことを知るのである。

 88歳になった石井健治郎は涙声で語った。「執行の直前、運動場で西と会うたとです。恩赦となったと西は喜んで、私たちは金網越しに握手のまねごとをした。本当に西が逝ったのは残念でしょうがない。私が執行されるのなら、私は2人も撃ち殺してるんじゃから、かまわんですけど、西はなぁ、何にもしとらんのに……」。

 2人の死刑囚の一方を赦し、一方の命を奪う。たとえ不確かであっても、自らの罪を認めない人間に国家の厳しい顔立ちを見せつける。人の命とは、国家が自分の顔立ちを整えるときの化粧道具ほどの価値しかなかった。

 宗教者・古川泰龍はその衝撃で痩せ細り、生涯、元に戻ることはなかった。

(季刊刑事弁護40号〔2004年10月刊行〕収録)


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