
仕事より行きたい
本業の不動産業では、毎年春になると故郷を離れて新生活を始める人々が、部屋を探しにやってくる。今年の春も1人の若者が遠く徳島県から東京の企業へと就職するため、住まいを求めて訪ねてきた。その新社会人の父親が末﨑賢二(すえざき・けんじ)さんだ。
末﨑さんは、2011年に徳島地裁で強制わいせつ致傷や住居侵入、傷害など3件の併合審理を担当した裁判員経験者であり、3人の子どもを持つ公務員だ。今回、私が部屋探しをお手伝いしたのは、長女の娘さんだった。
子どもは、(当時)小学生で説明しづらかったので最初は伏せてました。学校の授業で裁判員制度の話が出てきたときに、「実は、お父さん選ばれとったとよ」って言ったら、「裁判所で仕事しよったと?」って。その時は、性犯罪って言いましたね。身近で性犯罪が起きていること自体、たぶんニュースになっていないことがいっぱいあって。娘がこれから一人暮らしするのに、本当に気をつけんといかんねと思います。
福岡県で生まれた末﨑さんは、新卒社会人として徳島県で就職し、移住して20年余りが経つ。関西のイントネーションと筑後弁の温かい口調は、耳当たりもノリも良く、場の空気がとても和む。
ニュースで(裁判員制度のことは)知ってました。でも、もともと興味がまったくなかったので、テレビドラマで裁判のやつやっとっても、「面白くないからチャンネル替えて」って。職場から裁判所は徒歩圏ですけど、行ったこともなかったですね。
ちょうど自宅を新築している最中に候補者登録通知が届いて、嫁さんに「なんかきとるよ。悪いことしたの?」って言われて、「いや、職業柄そんな悪いことなんかせんと思うけど」って(笑)。最初は、裁判所からの通知だったので、やっぱりビックリしましたよね。ただ、登録されたってだけですから。
「悪いこと」をしたという心当たりはなかったそうだが、確信も持てなかったそうだ。そうして「選ばれるわけがない」と高をくくっていたが、竣工したばかりの新居に呼出状が届いてしまった。
もうビックリしましたね。家が出来て、住所変更もしたところで、(こっちに)来るかぁーって思いました(笑)。しかもこの日(選任手続日)、僕の誕生日なんですよ。
偶然とはいえ誕生日に呼び出されるとは気の毒だ。候補者登録通知の時は黙っていた職場にも、さすがに言わなければならなくなる。当時、現場に出ることが常だった末﨑さんの予定は、すでにすべての公判期日において仕事が入っていた。それでも呼出状を持って恐る恐る上司に事実を伝えた。
実は、裁判員の通知が来てて、すでに現場入っている日なんです。これなんとかなりますかって。そしたら「ニュースで見たことあるけど、噂のアレやな!」って。すぐに上の管理職の人にも言ってくれて、管理職の人も「えーっ、初めて聞いたぞ。ほんまかお前?」って。それで、シフトを変えればなんとかなるって上司が言ってくれて、「仕事はなんとかなるけど、お前はどうする?」って。
正直、仕事よりこっちに行きたいなと思っていたんですよ(笑)。なんかおもろそうやなと思って、なかなか選ばれんもんだし貴重なことやから経験しとかんと損よなと。で、「行きたいです!」って。どうせ当たらなくて、この日だけの可能性が高いですとも言って、「そりゃそうやな。じゃ、行ってみるか?」って言ってもらえて、「じゃ、行かせていただきます!」みたいな感じでした(笑)。
行きたい気持ちを謙虚に表し、うまく選任手続への切符を手にした。制度初期において公務員の裁判員休暇は当然整備されていた。ただ、初の適用となる末﨑さんが現れるまで誰もその存在を知らなかったそうだ。
宝くじは絶対──選任手続
誕生日の朝、末﨑さんは恐る恐る裁判所へと向かった。新居から裁判所までは自動車で移動するのが合理的だ。
車で来ていいですよ、とは(呼出状に)書いてあるんですけど、絶対に電車で行くと思っていましたね。裁判所という所は本当に怖かった。悪い人を裁くために呼ばれているわけだから、もしかしたらその取り巻きの人たちも裁判所にいるかもしれないし、車のナンバー覚えられるのが怖かったんで。
司法に関心も、裁判所に関わりもない一般市民の素直なイメージとして頷ける。

会議室(候補者控室)の席はポツポツ空いてて、40人くらいですかね。主婦とか大学生とか、割と普通の格好した方ばかりでしたね。
印象深かったのが作業着の方がいて、面接の時に手を挙げて、「仕事が忙しくて、選ばれても絶対にできないです」って、みんなの前でかなり言ってました。よっぽどマジメというか、罰則もあるから来たんだわって思いました。結局、その人は選ばれなかったです。僕も普段は作業着ですけど、その日は半袖のワイシャツとスラックスで行きました。やっぱり裁判所なので、チャラチャラした格好じゃいけんだろって、役所の人みたいな格好になってました(笑)。
仕事の途中でも、作業着でも、選任手続だけは出席する。そんな人たちに支えられながら裁判員制度は成り立っている。末﨑さんも慣れない格好で真面目に足を運んでいる。しかし、机に置かれた事件概要を見て驚愕する。
机に置いてあって見るしかなくて、「え、えーっ!?」て。担いで車の中に無理やり入れて、ケガを負わせて……。(事件現場は)仕事で通る場所だし、学校も近いし、時間帯も遅いですし、こんなことが徳島県で、身近なところで起きていたんやっていうのがビックリしましたね。
そのあと5人ずつのグループで別室に呼ばれて、「これから(被害者の)名前を言います。親戚や関係者の方は辞退できます」って言われました。事件概要と電光掲示板を交互に眺めながら、ひたすら「うわー!」ってなってました(笑)。とにかく、悪いヤクザとか強盗とか、そっちのほうじゃなくてよかったな、と。
自分が住む地域、それも普段の生活圏の中で、思いもよらない事件が起きていたことに動揺を隠せない末﨑さん。そして、選任された瞬間の気持ちも赤裸々に語ってくれた。
午前中で帰る気持ちで来てましたから、パッと掲示板に番号が表示されて、「うそでしょ!?」。でもね、すみません。やりたかったです(笑)。経験したことないことを経験したいほうなので。こんな理由でいいのかな?
半分ビックリですけど、半分は、「よしっ! 選ばれたぞ!」。すごい誕生日になったなって。すかさず頭に宝くじを買いにいくぞって浮かびました(笑)。
やってみたい気持ちを隠す必要はないと思う。その動機も含めて自然なことだ。ともあれ末﨑さんたち選ばれた裁判員は、今後のスケジュールなどの説明を受けたあと、各自連絡する時間を与えられたそうだ。この頃の裁判員裁判は、選任手続日の午後からいきなり初公判という運用が主流だった。
まず、嫁さんに「ちょっと! 選ばれたよ!」って電話しました。「すごいやん。誕生日おめでとう!」と返されました(笑)。次に、職場に「選ばれました」って電話しました。「何人中の何人なん? お前運いいな!」と言われて、「すみません、4日間公休で。宝くじは絶対買いますんで!」って言って切りました(笑)。あと、なぜか福岡の実家にも、「当たったばい! 誕生日ばってん選ばれたばい!」って。めったに電話しないんで、「なんがあったと?」って(笑)。でも、「とりあえず頑張らんね」と言ってくれました。
初公判までの限られた時間の中で、最小限の相手に連絡しなければならなかった。しかし、隠せない喜びは実家のご両親にまで届けた。そして、限られた時間で買いに走った宝くじは、残念ながら当たらなかったそうだ。
怖い怖い──初公判
裁判長は男性ですが、あとの2人は女性の裁判官でした。最初に、「番号で呼ぶところもありますが、私は名前で呼び合ったほうが、親密度も高まって、話の内容とかにも影響しますので、名前でいきたいのですがいかがでしょうか?」って聞かれて、みんないいですよということで、本名で順番に挨拶しました。
大学生、会社員、自営業や主婦といった20代から70代までの男性4人、女性2人の正裁判員に男女1人ずつの補充裁判員の計8名というバランスの取れた合議体だ。裁判官3人も含めた全員での昼食会を前後して、法廷の下見や入廷のリハーサルが行われた。
これテレビとかで見るような場所に来てるなって。こっちからの目線はこうなってるんや! けっこう高いなって。いろいろ説明受けて、これから4日間、ココで戦うんだなって気持ちが湧きましたね。
でも、法廷の裏側の造りが古すぎて、本当に舞台小屋の裏みたいな。すごい迷路みたいな汚い道を歩いてくんですよ。「今はボロいですが、これから建て替えが計画されていますんで」みたいな感じで言われました。バッと(扉を)開けた時の(法廷の)景色とのギャップがすごいなって思ったのを覚えてますね。

裁判員制度施行当初から旧庁舎のままだった徳島地裁は、2012年より建て替えが進められ、2016年11月に徳島城をイメージした近代的な外観とバリアフリーや災害対応を施された新庁舎に生まれ変わった。
そして、いよいよ初公判。末﨑さんは劇場の奈落のような所を通って、「戦場」へと向かった。担当したのは3件の併合審理だが、今回は強制わいせつ致傷事件に話を絞る。公訴事実は3件すべてにおいて認めていた。
傍聴席はけっこう人が入っていて、ガラリと変わりますね。本当に(人が)座っているんで、一気に緊張感が……。「ワイシャツ着ててよかったー」って(笑)。
被告人は、深夜に町中を車で徘徊しながらターゲットを物色し、被害者を見つけると事件現場へと先回りし、被害者の口をふさいで抱きかかえ、無理やり車へ押し込み脅迫のうえ犯行に及んだとされている。その際に、前額部(おでこ)の打撲および皮下血腫のケガを被害者に負わせた。その被告人と対峙した感想を聴いてみた。
被告人は、野球をやってたので体が大きくて、パッと出てきたときに、「うわ! こわぁ!」って。人相はそんなに悪そうではないんですけど、こんな大男がこんなことしたら、誰も防ぎ切れんよね。他のみんなも、「怖かったー。怖い怖い」って。前科も同じ性犯罪でした。
大柄な被告人を前にして、末﨑さんたちは息をのんだ。検察官と弁護人双方の冒頭陳述はどうだろうか。
検察官は、詳細な紙の資料で、内容はショックだけれど複雑な点はなかったです。刺す言葉っていうんですかね、鋭い口調でしっかり物を言うなって。口喧嘩したら絶対負けるなって感じでした(笑)。
こんなやつ弁護する人おらんやろって思ってましたが、国選弁護人なんですよね。でも、仕事はそんなに熱心じゃなかったですね。いかに(量刑を)短くするかで来ているんだなと感じました。
検察官の「刺す言葉」。むろん、被告人を糾弾する立場なので当然なのだが印象的な表現だ。初日、選任手続に続いて始まった初公判を終えた末﨑さんは帰宅の途についた。
急に非現実的な世界に放り込まれた感じで、衝撃が強すぎて、頭もボーっとして、家まで10何キロあるんですけど、電車に乗らず歩いて帰りました。一日中座ってて動いていないから身体動かそうと思ったんですよね。頭だけというのが性に合わなくて、身体も一緒に疲れさせたら、ストレス発散できるかなって。裁判所で裁判員に選ばれて、こんな事件で……。そんなことを考えながら歩いてました。気づくと5キロくらい歩いてて、ちょうどバス停があったんで、そこからはバスに乗って帰りました。
ボーっとしながらも足は自宅へ向かう。そして、思い巡らすうちに「うちの近所は大丈夫か?」と家族が心配になったそうだ。無事に帰宅した末﨑さんを家族が迎える。
そん時ね、ケーキを用意しとってくれて、「誕生日おめでとう!」って。「……ありがとう!」って感じで、その(気持ちの)持っていき方が複雑だったんですよ(笑)。子どもたちも(当時)小学生でしたから、「パパ、おめでとう!」って言ってくれて、「わー、ありがとう!」って、ニコニコして食べな悪いなって。
家族の温もりが溢れるが、タイミングが悪かった。末﨑さんの裁判員1日目は忘れられない誕生日となった。
(2025年07月14日公開)