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第24回

「琉球人のご先祖の遺骨返還を」訴訟をめぐるストーリー

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100年前にお墓から盗まれた遺骨は誰のもの?

取材・文・構成/丸山央里絵(Orie Maruyama)

写真/新垣欣悟(Kingo Arakaki)

編集/杜多真衣(Mai Toda)


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 待ち合わせは、那覇から車で1時間半ほどの今帰仁村(なきじんそん)役場だった。ハイビスカスやプルメリアの花々に囲まれる役場の壁には、「めんそ~れ」の文字とシーサーたちがパステル色に描かれている。


 東京から訪れた私と、那覇に住む写真家の新垣さんのふたりは、ひとまず駐車場に車を止め、思い思いに歩き、湿気を含む夏の空気を吸い込んだ。台風一過、のどかで風が涼しい午後だった。

 まもなくして、手慣れた運転で、玉城毅(たまぐしく・つよし)さんが駐車場に現れた。軽くあいさつをしてから、車を先導してもらう。2台の車は瓦屋根の民家の並ぶ小道を何度か曲がり、狭い坂を登り、やがて人が一人ずつ通れるほどの崖沿いの山道が始まる地点で止まった。

 入り口には、「百按司墓(むむじゃなばか)」と書かれた道標がぽつんと立っていた。

 「足元に気を付けて」

 玉城さんの後ろについて、細い山道を5分ほど歩くと、崖の岩肌に沿う形にこんもりしたお墓が並んでいた。「風葬の習慣がない本土から来た役人が、野蛮だからと石を積み上げ、漆喰で塗り固めてしまった」という家型のお墓が、崖下の海を見つめて並んでいた。

 墓前に平御香(ヒラウコー)を焚き、私たちは順に手を合わせる。墓の中に置かれた、朽ちた骨壺(こつつぼ)に自然と目が留まる。

 「この百按司墓にはもう、5つの骨壺しかない。全部持って行かれて」

 私たちはその時、玉城さんのご先祖様のお墓参りをしていた、はずだ。けれども、手を合わせた先には一片のご遺骨もないと、玉城さんは静かに告げた。

 「神社なら、ご神体がないのと一緒ですよ」

 あるのは空っぽの骨壺だけ。では、かつてここに眠っていた遺骨は今、どこにあるのだろうか。

 遺骨の多くは数奇な運命の果て、「沖縄県立埋蔵文化財センター」の倉庫にある、無機質な段ボールに入れられて保管されている。その数、63体。

玉城毅さん。もう3年近く、遺骨返還に精魂を傾ける

盗まれた遺骨

 「百按司墓(むむじゃなばか)」は、沖縄県今帰仁村(なきじんそん)の指定文化財だ。

 1429年に琉球に初の統一王朝を築いた、第一尚氏(だいいちしょうし)の貴族やその一族の風葬墓と言われていて、現代も続く「今帰仁上り(なきじんぬぶい)」という聖地巡拝行事の巡礼地でもある。

 その百按司墓からいつ、ご先祖の大切な骨はなくなったのか。

 時は、戦前に遡る。1928年(昭和3年)から1929年(昭和4年)にかけて、京都帝国大学(現・京都大学)の人類学助教授だった金関丈夫(かなせき・たけお)氏らが、「琉球人の人骨標本」を作成するため、沖縄県各地から遺骨を採集していた記録が今も残っている。

 『琉球民俗誌』(法政大学出版部・1968年発行)には、金関氏が沖縄の研究者の紹介を受け、県や那覇市の許可を得て、人骨を採集したことが記されている。百按司墓もその採集地の一つだ。しかし、子孫や祭祀承継者の承諾を得たという記述はどこにも見られない。代わりに、金関氏の言葉でこうある。

 ——今一つの心配があった。それは折角見つけた骨を首尾よく持って帰れるか否かの問題である。

 ——聞くところによれば琉球人は厚葬の風があるのみならず、人骨に関してはさまざまな迷信があるとのことだから、ますます心配になった。

 祭祀承継者の許可を得ないまま、お墓から遺骨を持ち出すことは、当時も今も違法行為である。

 そこに眠っていた遺骨は当時、死後数百年も経っていなかったはずだ。何代か前の先祖のご遺骨は供養の対象であり、埋蔵文化財ではないことは、多くの人にとって疑いようがないことではないだろうか。

 しかし、遺骨は持ち去られた。何のために?

百按司墓は、風葬墓。かつての琉球には遺体を埋葬せず、雨風に晒して自然に還す風習があった

研究材料

 「研究って言えば何してもいい、みたいな」

 仲村涼子さんは、「わじわじー(憤りでふるえる、イライラする)」とウチナーグチ(沖縄島の言葉)をおり混ぜ、私の問いにてきぱきと答えてくれた。藍色のかりゆし姿がさわやかだ。

 当時、京都帝国大学医学部の金関助教授と三宅宗悦講師らは、沖縄だけでなく、各地で先住民族の人骨標本を大量に収集していた。「形質人類学」の研究が目的だったと言われている。

 「しかも植民地主義につながっているんです」

 今では、彼らの人類学研究は、当時の植民地支配のもとでの優生思想の醸成のために取り組まれていたことが分かっている。

 「併合した地域の先住民族の骨を盗っているんですよ。アイヌとか琉球、台湾とかね」

 つまり、先住民族を差別して、日本民族の優秀性を主張。帝国主義を学知で補強するための「研究材料」として、明らかな蔑視のもと、百按司墓(むむじゃなばか)の遺骨は奪われたのだった。

 1903年(明治36年)に大阪の博覧会で、琉球やアイヌ、台湾、マレー人などの「生身の人間」の展示を行って非難を浴びた「人類館事件」や、戦時中の帝国陸軍の研究機関「731部隊」とも、思想や関連人物がつながっていると仲村さんは語る。

 「帝国大学の教授が盗っていますから。植民地にした台湾で、台北帝国大学(現・国立台湾大学)をつくって、そこでも先住民族の骨を盗ったり」

 百按司墓から人骨を採集した金関氏はその後、台北帝国大学の教授となり、遺骨は研究材料として台湾に運ばれた。

 そうして、百按司墓に眠っていた遺骨は、京都と台湾、いずれも無縁の地に留まることになった。

 「世界的に、遺骨とか副葬品とか、先住民族が奪われたものを全部あるべき場所に返すように、(流れがもっと)広がってほしいです」

 仲村さんは憤りをたたえた目で、力強く言った。

仲村涼子さん。県議会に働きかけるなど積極的に活動する

(2022年06月24日) CALL4より転載

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