事件の風土記《3》

【志布志事件】市民社会の正義や倫理からかけ離れた捜査手法

志布志事件 その3

毛利甚八


  • 四浦地区懐集落の棚田
    初夏に訪ねると、四浦地区懐集落の棚田は田植えが終わっていた。

2003(平成15)年の6月だった。志布志町の僧侶・一木法明さんの自宅に、夜遅く電話がかかってきた。電話の主はTさんという四浦地区に住む60代の男性で、内容は次のようなものだった。

選挙の買収に関わったという疑いで志布志警察署の任意同行を受けているのだが、連日、警察が朝早くに迎えに来て夜の10時まで取り調べされる。選挙違反などしていないと言ってもまったく信じてもらえず、嘘をつくなと怒鳴られるばかりだ。警察から解放されて入院中の父親を世話し、真夜中にやっと家に帰っても、腹が立って眠れない。誰に相談していいのかわからないので、電話をしてみたという。

Tさんはさらにこう言った。「警察で、選挙違反を認めないと逮捕すると言われました」。

一木さんは驚いて答えた。「証拠もないのになんで逮捕できる。それは脅しだよ」。

「いや、私はもう認めるかもしれません」。

「認めてどうする。認めたら、次は誰から金をもらったかということになる。そして、その金を誰に渡したか、どう使ったかになる。それも含めて嘘を言わなければなくなる。それはどうするつもりか」。

「だから困っているんです」。

「念のために聞くが、金をもらっているんじゃないか」。

「先生までそんなことを!  絶対にもらっていません」。

一木さんは、やっていないのなら罪を認めるべきではないと励まし、何時になってもいいので家に帰ったら電話をかけるよう伝えた。こうして数日の間、電話のやりとりが続いた。ところが、ある朝、新聞を広げてみるとTさんの逮捕が報じてある。一木さんは奥さんと顔を見合わせた。奥さんもまた電話で相談相手を務めていたのである。

「あんなことを言っていたが、Tさんはやっぱりもらっていたんだ。裏切られたねぇ、と夫婦で話し合ったんです。まだ、警察が証拠もないのに人を逮捕するはずがないと信じていました。数日後、ある新聞記者から連絡があって、選挙違反で逮捕された四浦の人たちの家族がマスコミを相手に話す場が設けられるという。行って家族の話を聞いてみると、警察の取調べのひどさを必死になって訴えている。警察から馬鹿とか嘘つき呼ばわりされ、お前のような奴は死んでしまえとまで言われている。Tさんから聞いた話とよく似ているわけです。もしかしてTさんも無罪なのかもしれないと考えるようになりました」(一木法明氏)

やがて鹿児島県議会の社民党県議団が鹿児島選挙違反事件の調査のため志布志町を訪れた。報告会に立ち会った一木さんは、住民代表として県議団へ挨拶するように会場で依頼された。この報告会が発端となって冤罪被害者を支援する機運が広がり、支援団体「住民の人権を考える会」が組織される。一木さんは周囲の人たちに推される形で代表となるのである。

「当時、選挙違反が事実かどうかは裁判の推移を見ないとわからないと思いました。しかし、警察の取調べのあり方が人権を無視しているのは間違いない。取調べの間は同じ姿勢をずっととらされ、足を組むことも許されない。取調官が机を叩く、容疑者を殴るまねをして、顔の寸前で止める。みんなが認めていると脅し、お前一人だと孤立させている。刑事の取調べはマニュアルがあるようです。任意同行された人たちはほとんど同じことを言われている。選挙違反と交通違反は任意か故意かの違いであって、罰金を払えばすぐに解決する。同じ船に乗れ、同じ列車に乗れ、お前だけが取り残されるぞ。弁護士を雇えば何百万円もかかって、みんな身代を潰すんだ。祖父も孫も引っ張るぞ。そう、みんな言われている。取調べのあり方は憲法の基本的人権すら侵害している」(一木氏)

一木さんは白髪頭の好々爺だ。長い間、教師を勤めた包容力あふれる人柄と鹿児島訛りのユーモラスな語り口が周囲の人々を惹きつけているのだが、紙幅の関係でその語り口は再現できない。この事件が特異なのは、一木さんのような地域社会の温厚なリーダー役を務めてきた人を驚かせ、呆れさせ、怒らせ、支援運動に走らせていることだ。警察が四浦地区の人々に与えた苦しみは、市民から見てあまりにも目に余るものであり、警察の捜査手法は市民社会の正義や倫理からかけ離れたものだった。

Fという50代の男性は連日の取調べに疲れ果て、集落近くの川に飛び込んで自殺を図った。自殺未遂の後に取調べをした副検事は、「選挙違反をしたので、死んでお詫びをする」という調書を残した。ところがFさんを救った男性が聞いたのは、まったく反対の言葉だった。法廷で証言されたのは次のような言葉だ。「やってないと言ってるのにわかってくれない。本当のことを言っても、警察は聞いてくれない。逮捕されてマスコミに書き立てられれば、子どもも就職できない。死んだほうがましだ」。

被告人にYという70代半ばの人がいた。2003513日に逮捕され、186日間の勾留を受けた後にガンを患った。入院中の病院に裁判官が出向き、臨床尋問が行われた。Yさんは声も満足に出ない状態で「やってない」と答えた。その夜、家族に向かって、「ちゃんと答えたかったのに、思い出せなくて悔しい」と嘆いた。

臨床尋問の翌日の夜、Yさんは他界した。

「支援運動をやってみて、裁判になったら大変だということが初めてわかりました。こんなにも日本の裁判は長引く。すでに2年半もかかっている。被告人にされた人たちは働くこともままならないんです。裁判の間、誰も生活を保障してくれない。その途中で死んでいった人もいる。しかも、死ぬ前の日まで裁判官が病院にやって来て尋問をしている。裁判官は親切心でやって来たのかもしれないが、私のような僧侶の立場から言えば、死の間際に至るまでこうした争いごとに巻き込まれて、心の休まる暇もなく死んでいった人が哀れでたまりません。できれば一生を閉じていく人間は心安らかに手を合わせて、お世話になったありがとう、仏様に救われて逝く、そういう心安らかな気持ちにしてあげたい。そういうことなしに人間を死なせるというのは大変な罪悪ですよ」(一木氏)

日本の辺境に住む住民を襲ったこの冤罪事件は、とてつもなく大きく見える。ひとつひとつの光景は小さく、個々の人々が受けた傷は大事件のような派手さはない。しかし、警察官、検察官、裁判官が四浦の人々にふるった暴力のありようは、戦前の思想弾圧で発動された権力の獰猛さとまっすぐに連なっている。昭和20年代の冤罪事件を取材するなかで、おぼろげに確認した特高警察の遺伝子が、ふいに現在の鹿児島県に現れて毒々しい大輪の花を咲かせたかのようだ。被疑者を密室に閉じ込め、人格を貶め、威圧し、自分達が思い描いた筋書きに屈服させようとする警察と、それを追認していく検察と裁判所。そこで働く人々の心のどこに、禍々しい遺伝子が生き長らえる場所があったのだろうか。

(文中敬称略)

(季刊刑事弁護45号〔20061月刊行〕収録)

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(2019年06月10日公開)


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