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毛利甚八

事件の風土記《4》

処刑後、ハンセン病療養所に分骨された西死刑囚

福岡事件 その3


  • 敬愛園に所蔵されている古川泰龍の書「花曇」を囲んで
    敬愛園に所蔵されている古川泰龍の書「花曇」を囲んで、左から四女・さゆり、妻・美智子、長女・龍桃、長男・龍樹(後列)

 快晴の空に褐色の火山が突き刺さっている。桜島を横目に錦江湾を渡り、垂水市のフェリー乗り場から車で約1時間走ると、農地の広がる台地に星塚敬愛園があった。

 そこはかつてハンセン病患者の隔離施設であった。今は隔離が解かれ、平屋の集合住宅が美しく並ぶ瀟洒な団地のようだが、住宅の建ち並ぶその数や敷地の広大さに目を向ければ、ハンセン病を封じ込めようと過去に振るわれた国家権力の大きさに驚くばかりだ。

 ここは求道者であった古川泰龍が、戦後まもなくの頃から関わってきた場所であった。新婚旅行のために古川に従って旅をすると、着いた場所が敬愛園であった、と妻・美智子は笑う。

 古川が触媒となったのだろう、福岡の拘置所に収監された死刑囚・西武雄と鹿児島の南端にある療養所の人々は一度も顔を合わさないままつながっていくのである。

 敬愛園にNという女性がいた。西と文通をする仲となった。彼女は療養所内で働いたわずかな賃金を貯え、西に送金を続けた。送られた金は西が描く仏画や写経の材料費となった。完成した仏画や写経は額装され、支援者の手を通じて売却された。西はその金で、敬愛園に梵鐘を贈るのである。

 昭和32(1957)年、療養所の中に仏教寺院が建立され、西の贈った45貫の梵鐘が吊された。そして、昭和50(1975)年6月に処刑された西武雄の遺骨の一部はここに葬られている。

 平成16(2004)年11月、古川の遺族に導かれるようにして星塚寺院を訪ねてみると、寺を守る人たちが当時のアルバムを見せてくれた。鐘楼をつくる過程がモノクロ写真で残されている。そのアルバムをめくるうちに小さな紙袋がこぼれた。紙袋の中から出てきたのは福岡の拘置所で撮られたと思われる西武雄の写真だった。

 晩年ではなく、若い頃の写真ではないかと、古川美智子は言う。写真の中の西武雄は晴れ晴れとした顔で、書き上げた仏画の横に座っている。西からNという女性に送られたものか、それとも梵鐘が届いた際に送られたものか、西が処刑された後、療養所に分骨された際に持ち込まれたものか、詳細はわからない。

 福岡事件の冤罪を晴らすために闘ってきた古川泰龍は、西武雄が処刑された際、「私と西武雄は一卵性双生児のようなものだった」と繰り返し語った。片身をもがれたような衝撃に、1年間は茫然自失の体だったと家族は言う。河原で拾った、手の平に載るような自然石を磨いて過ごしたこともあった。

 その後、古川は自己凝視の時代に入る。午前2時に起床して宗教書を読み、座禅を組んだ。家族は父にしたがって早朝の聞法に精を出した。

 昭和56(1981)年からは北九州市の産業医科大学でTHANATOLOGY(死生学)について講義をするようになった。昭和59(1984)年には三井三池炭坑で犠牲になった中国人強制労働者の慰霊塔を建立した。平成元(1989)年に世界宗教者会議に出かけてみると、日本社会では異端とも見える古川はあたたかく迎えられ、毎年スピーチを依頼された。

 しかし、古川の願いは、なにより西武雄の冤罪を晴らすことであった。

 平成7(1995)年、西武雄の遺族の消息が判明した。遺族から死後再審を起こす委任状が託され、平成10(1998)年には福岡事件の公判資料の写し5000枚を手に入れた。古川は毛筆で書かれた供述調書を妻と2人がかりで読み下し、再審のための書類作りを続けた。

 次に紹介するのは平成11(1999)年の年賀状の文面だ。

 謹賀新年

 最後のいのちを賭けたい

 私が教戒師として西・石井冤罪死刑囚と出会って今年は47年になる。私はこの年結婚したので妻も共に運動に生きてきた。西死刑囚は運動14年目に処刑された。石井死刑囚は28年目に、43年間の獄中から生きて解放された。然し西死刑囚の冤罪の真相は晦まされたままである。私は無念の思いを噛みしめて死後再審をめざしてきた。そこへ有力な協力者が出現し、再審は現実のものになった。私は80年の生涯の総決算として、この悲願の達成に最後のいのちを賭けたい。 合掌 古川泰龍

 この年賀状が書かれる4カ月前、古川はルーマニアのブカレストで開かれた世界宗教者会議で死刑廃止の講演を行い、熱狂的な支持を受けた。会議の席で「デッドマン・ウォーキング」の原作者シスター・ヘレン・プレジャンと出会い、日本で一緒に講演活動をする約束を交わしている。

 だが、古川泰龍はシスター・ヘレンの来日を見ることなく、平成12(2000)年8月25日、鬼籍に入った。死の3カ月前には西武雄の命日に行われる梅雨忌の法要を務めたが、すでに自由にならない身体をおしての壮絶な供養だったと、長男の龍樹は言う。

 古川の遺志を継ぐのは家族の運命であった。長男・龍樹と四女・さゆりは、父の死から1カ月後アメリカに旅立ち、ワシントンの公文書館で福岡事件の新証拠を探している。

 平成13(2001)年1月にはシスター・ヘレンが来日し「古川泰龍・出会いの会」が開かれ、翌年春には古川の歩いた道をたどるシスター・ヘレンの講演会が9都市12会場で開かれた。平成17(2005)年5月には、福岡事件の再審と死刑廃止を訴えるため、シスター・ヘレンの再来日が決定している。

 熊本県玉名市のシュバイツァー寺は古川泰龍がシュバイツァー博士の遺髪を託されたことからその名がある。宗派も教条も超えた破天荒なヒューマニズムの砦であり、宗教者としての完成よりも雪冤に一生を費やした求道者とその家族の城でもある。

 現在、その場所で再審請求書が準備されつつある。

(季刊刑事弁護41号〔2005年1月刊行〕収録)


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