深謀無遠慮 第4回

刑事弁護の歴史のはじまり

大出良知 九州大学名誉教授・弁護士


1 当番弁護士制度の出発点となった「松江シンポ」

 このコラムではこれまで、刑事弁護の喫緊の課題について考えてきました。期待されている刑事弁護の在り方からすれば、実践的にはまだまだこれからという課題が残っていることは間違いありません。しかし、この間の進展によって、ようやく方向性が見えることになってきたともいえるかもしれません。

 そのきっかけになったのは、ちょうど30年前の1989年に日本弁護士連合会(日弁連)が松江市で開催した人権擁護大会でのシンポジウムでした。刑事弁護に熱心な弁護士の人たちの間では、いまだに「松江シンポ」として話題になるこのシンポジウムでの議論が、翌年に日弁連刑事弁護センターを生み、当番弁護士制度をスタートさせることになりました。被疑者国選弁護制度の創設を目指してでした。

 被疑者「国選」制度は、松江シンポから15年を経た2004年の法改正(平成16年5月28日法律第62号)で対象事件は限定されていましたが、勾留段階から認められることになりました。そして、2016年の改正で、対象事件が勾留全事件に拡大されましたが、松江シンポから27年が経っていました。「刑事弁護拡充の歴史は刑事訴訟手続発展の歴史である」と言われたりしますが、被疑者「国選」制度実現の軌跡は、見ようによっては、あまりにも遅々としています。しかし、それが犯罪者としての嫌疑をかけられた被疑者の人権保障の現実なのかもしれません。であればこそ、刑事訴訟手続発展の道標でもあるのでしょう。

 特に、日本では、その事態をどう評価するかはともかくとして、この被疑者国選弁護制度実現までも含めたここまでの近代的刑事訴訟手続における刑事弁護の発展には、130年近い時間がかかっています。前々回(第2回)に少しご紹介し、議論のあった戦後改革時からでも80年近い時間が経っています。

 ということですので、あらためてその経緯を少しずつ振り返ってみることで、その時間の意味について考えてみることにしたいと思います。今回は、まず、近代的な刑事訴訟手続の導入期であった明治初年の刑事弁護について確認しておきましょう。

2 明治初年の刑事弁護

 近代的な刑事訴訟手続が、法制度上導入されることになったのが、1880(明治13)年7月17日に制定・公布され、1882(明治15)年1月1日に施行された治罪法によってです。この治罪法の制定によって、法制上刑事事件についての弁護が認められるようになったことは良く知られているところです。

 しかし、それ以前にも、刑事弁護というべき活動が全く認められていなかったわけではなかったことも明らかになっています。ということで、今回はまず、治罪法以前の状況から確認してみたいと思います(なお、史料の引用にあたっては適宜旧漢字を新漢字にあらためています)。

3 代言人の誕生

 近代的な司法制度は、1872(明治5)年8月に、司法制度全般の枠組みを定めた裁判所構成法と言ってよい司法職務定制が制定されることで創設されることになります。その中で、法律家については、判事職制、検事職制・章程、それに、後の公証人、司法書士、弁護士に関わる「証書人代書人代言人職制」を規定していました。代言人については、その43条で「各区代言人ヲ置キ自ラ訴フル能ハサル者ノ為ニ之ニ代リ其訴ノ事情ヲ陳述シテ枉冤無カラシム」と定めていましたが、資格についての規程はありません。この時点で制度的に認められていたのは、民事事件に対応することだけでした。刑事事件の弁護は、前述したように治罪法によって認められるまで待たなければなりませんでした。

 それ以前ということでは、そもそも民事と刑事の区別が明確だったのかといった問題もなかったわけではありませんが、それはともかくとして、今の刑事事件に当たるような事件に、全く専門家的な援助がなかったわけでもないと考えられています。

 明治の最初期には、江戸時代に刑事事件に関与して一定の役割を果たしていたと考えられている公事宿・郷宿や公事師がまだ存在しており、公事宿・郷宿は「差紙送達、未決勾留のための預」、「被糺問者の依頼を受けて書面の作成」、「被糺問者に付添って出廷、吟味役人と被糺問者の間を周旋して発言」など、公事師は「裁判ないし法廷外で、町方在方の者から依頼をうけ、代書や裁判手続の教導」や「代人もしくは差添人として出頭することがあった」と推測されています(平松義郎『近世刑事訴訟法の研究』〔創文社・1960年〕705頁以下)。

 そして、公事宿等の役割が代言人や代書人に引き継がれていくものの代言人に刑事事件への関与が認められていなかった状況の中では、代書人が博打犯の自首に付き添ったり、窃盗被疑者の無実主張書等に関与していたといわれています。代書人の活動は「民事・刑事・行政全般に亘って」おり、それは「江戸時代の公事宿・郷宿の系譜からすればまったく不自然ではな」かったというのです(吉田正志「明治初年のある代書・代言人の日誌」服藤弘司先生傘寿記念論文集刊行会編『日本法制史論纂 ― 紛争処理と統治システム』(〔創文社・2000年〕427頁)。 

4 刑事弁護制度の嚆矢となる事件

 そのような、いわば事実上行われていた刑事弁護的活動とは異なる「刑事弁護制度の嚆矢」(南波杢三郎『辯護學』〔新光閣・1935年〕38頁)ともいわれる弁護活動が認められたのが、1871(明治4)年1月9日に起きた長州藩出身で明治政府の要人だった広沢真臣参議が私邸に侵入した何者かによって刺殺された事件においてでした(この事件については、尾佐竹猛『文化史としての日本陪審史』〔邦光堂書店・1926年〕94頁以下、田中時彦「広沢真臣暗殺事件 ― 陪審制度の試行」『日本政治裁判史録明治・前』〔第一法規・1968年〕254頁以下などに詳しい)。

 この事件の捜査は、明治政府発足直後の政府機関の権限争いなどもあって難航し、漸く1875(明治8)年になって、別々の三方向から5名が被告人として立件されることになります。そして、その中から犯人を特定するための裁判が行われることになりました。その裁判も、裁判官以外の判断者、といっても政府から選出任命された7名(後に、12名に増員)に有罪無罪の判断を委ねる「参座制」という特別の方式で行われることになりました。

 この裁判の方式は、「陪審の試みともいふべき」制度とも評されており(尾佐竹・前掲書35頁)、そのためにわざわざ「広沢故参議暗殺事件別局裁判規則」が制定されました(1875年2月)。その構成員として、裁判官、参座、原告官のほかに、「司法卿ノ選ヲ以テ省中官吏ノ内ヨリ」2名を「弁護官」として、任命することになっていました(4条)。つまり「官選弁護」というべきもので、その弁護官は、「被告人ノ為メニ弁護スル責ニ任」じる(5条)ことになっていました。

 その意味では、確かに「刑事弁護制度の嚆矢」といえるのかもしれませんし、「代言人に代わる弁護士なる名称の母胎になった」(瀧川政次郎「弁護官」自由と正義2巻7号〔1951年〕40頁)とも言われています。しかし、その具体的な内容としては、「参座ニ向テ一応其意見ヲ述ヘシト雖モ、糺弾ノ善悪ヲ論ジ、又ハ罪ノ有無ヲ論ジ裁判ノ当否ヲ論ズルノ権ナシ」(5条)とされており、弁護の内容が限定されていたのが実際でした。

 ということでしたから、効果的な弁護が行われたかは疑わしいのですが(南波・前掲36頁参照)、この裁判で5人の被告人は、いずれも無罪になりました。その後、この同じ事件で別の被告人が立件され、1880(明治13)年3月に前回と同様の規則の下で裁判が行われましたが、その際には、弁護官が「無罪の大弁論を為した」結果、被告人は無罪になったといわれています(尾佐竹・前掲書134頁)。治罪法制定直前になっていて、刑事弁護についての認識にも変化があったということかもしれません。

5 刑事弁護に関わる2つの新たな動き

 ところで、この2つの裁判の間には、刑事弁護に関わる2つの新たな動きもありました。1つは、外国人が関係した刑事事件での外国人に対する代言人による弁護の許可でした。1876(明治9)年5月1日に、外国人居留地でホテル経営をしていたアメリカ人が、売買についての行き違いから日本人八百屋夫婦を傷害し、しかも、代言人を依頼し八百屋夫婦を告発するという事件が起きました(この事件については、山田武雄『日本に於ける弁護の歴史』〔酒井書店・1937年〕24頁以下、尾佐竹猛「附録・刑事辯護制」『明治警察裁判史』〔邦光堂書店・1926年〕194頁以下等参照)。

 しかし、この事件で一方が代言人を依頼しているにもかかわらず、他方が代言人を依頼できないのは不公平ではないかということで、司法省と法制局の間でやりとりが行われることになりました。

 司法省からの、「従来刑事上代言人ヲ用ヒサルハ、必スシモ禁令アルニ非ス、自然ノ習慣ニ有之候処、或ハ外国人関係ノ刑事ニテ、彼レハ代言ヲ用ヒ、我レハ代言ヲ用ユルヲ得ス、ソレカ為メ、遂ニ幾分ノ権利ヲ失ヒ候様立至リ、殊ニ国民保護ノ道ニ非ス」、あるいは「婦女子又ハ訥弁ノ為メ、直者ヲシテ却テ曲者ト為ラシムルノ憂モ有之、此際代言人ヲ用ヒスシテハ、吟味ヲ為スコトヲ得サルノミナラス、大ニ国民ノ権利ヲ失フニ至ル」との伺いに対して、「外国人関係ノ分ハ、差掛リ候事ニ付、伺ノ通差許」との指令が出されることになり、これはこれで「刑事辯護史の第一頁は此時から創まる」(尾佐竹・前掲「附録・刑事辯護制」195頁)や「刑事弁護創立の端緒を開くに至れり」(山田・前掲書25頁)と評価されることにもなりました。

 この事件をきっかけに、外国人の関係の事件に代言人の依頼を認めるということになれば、日本人同士の事件にも認めるべきではないかということになるのは必然でした。折しも、著名な政商とも言うべき三谷三九郎の水油の取引をめぐる契約違反等に関わる民事事件と関連する刑事事件が(この事件については、奥平昌洪『日本辯護士史』〔有斐閣・1914年〕61頁以下参照)社会的関心を集めており、一旦決着をみていました。

 ところが、同事件について別罪での立件の可能性が生まれており、司法省は、事前に「被告人ニ於テ代言人差出候儀願出候モ難計就テハ刑事代言人ノ儀既ニ過日伺済ノ上規則即今取調中ニモ有之候間右願出候節ハ允許致シ度此段相伺候也」との伺を出していました(明治9年6月29日)。これに対して「伺之趣聞届候事」との指令が出され(同年7月7日)、外国人関係の事件以外にも代言人を認めるということになりました(尾佐竹・前掲「附録・刑事辯護制」196頁、山田・前掲書27頁以下)。

 しかし、なお、刑事事件一般に代言人を認めたわけではなく、事件毎に許可を受けなければならないということであり、選任の手続についての規定も用意されていませんでした。治罪法の制定まででさえ、なお4年の年月が必要でした。

(なお、文中に注記した文献以外に、この時期の概観については、椎橋隆幸『刑事弁護・捜査の理論』4-6頁〔信山社・1993年〕や出口雄一「刑事弁護の誕生」後藤昭ほか『実務体系現代の刑事弁護3 刑事弁護の歴史と展望』〔第一法規・2014年〕5頁以下等を参照させていただいています。)

(2019年07月11日公開)


こちらの記事もおすすめ