4 指掌紋鑑定における3つのステップと、起訴取消しの結末
後から判明したことですが、捜査機関は弊社が提出した前述の鑑定書を見るまで、現場に残された掌紋の向きが自分たちの想定と逆であるという事実に気づいていなかったようです。
最初に遺留掌紋と甲氏の掌紋が一致したとの連絡を受けた際、警察側は現場のフェンスで掌紋付着の再検証を行いました。しかし、このとき警察は、居宅側に立って、畑を前に見ながら「居宅側から畑の方に向かって、フェンスを乗り越えたに違いない」という自分たちに都合の良い見立てを裏付ける実験に留まっており、実際の遺留掌紋がどちらの方に向かって付着していたのかという確認を怠っていたのです。
なぜ、このような見落としが生じてしまったのでしょうか。その最大の要因は、屋外のフェンスに1週間も前の指掌紋が残るはずがない、ゆえに現場の掌紋は犯行当日に犯人が残したものに違いない、という先入観にあるように思います。
本連載で述べたとおり、屋外の指掌紋は残存期間が比較的短い傾向にあることは事実です。しかし、本件のように結果として遺留掌紋が被疑者に一致していたとしても、本人が犯行を否認している以上、それが「本当に犯行時に付着したものか」を多角的に検証することは、適正な捜査手続において不可欠です。
一般的に、犯罪捜査において指掌紋鑑定を行う際の検討課題には、以下の3つのステップがあります。
①合致の有無(その指掌紋は誰のものか)
②犯行時付着の有無(その指掌紋は犯行時に付着したものか)
③犯人指掌紋の不存在(犯人の指掌紋が存在しているか否か)
今回の警察捜査を振り返ると、第1ステップ「合致の有無」によって遺留掌紋が甲氏のものであることは確認されたものの、最も重要であるはずの「犯行時付着の有無」についての検証が十分に検討されていなかったことになります。
弊社が前述の鑑定書を提出した後の2013年4月25日、甲氏は弁護人に対し、「事件発生の2日前に現地を訪れ、畑側から居宅内を覗き込むようにしてフェンスに触れたことを思い出した」と伝えました。
被疑者がフェンスに触れた時期が事件の2日前であれば、屋外であっても掌紋が鮮明に残っている可能性は十分にあります。何よりその行動は、弊社が設計図面との比較から証明した「畑側から居宅側を向いている」という掌紋の付着方向と完全に一致するものでした。
これにより、現場の掌紋は犯人が逃走時に残したものではなく、事件とは無関係の機会に付着した可能性が極めて高くなり、検察側の立証ストーリーはその前提を失うこととなったのです。
2013年8月24日、地元紙の河北新報は「仙台地方検察庁が起訴した強制わいせつ致傷事件において、決定的な証拠とされていた掌紋合致の証拠能力に疑いが生じたため、検察が起訴を取り下げた」と報じました。その具体的な理由は公に明かされませんでしたが、被疑者に一致した遺留掌紋をもって、有罪を立証することは極めて困難であると判断したために、このような判断に至ったと思われます。
今回のケーススタディは、指紋や掌紋が被疑者のものと一致したとしても、それが「いつ、どのような状況で、どちらを向いて付着したのか」という周辺の検証を怠れば、いとも簡単に冤罪の引き金になり得るという、極めて教訓に満ちた事例であるといえます。
実務において、捜査機関から鑑識証拠が提示された場合、弁護活動は一見して非常に難しい局面を迎えます。しかし、客観的証拠とされるデータであっても、現場を直接観察したり、メーカーの設計図面から正確な寸法を割り出すようなアプローチを行うことで、これまで見落とされていた死角や事実が明らかになることがあります。
警察側が作成した資料や調書、写真だけでは見えてこない微細な痕跡にこそ、事実を明らかにする鍵が隠されています。鑑識証拠に対して適切な検討(前述の3つの課題)が行われているかを冷静に見極め、疑問がある場合には初期の段階から専門的な知見をもとに多角的な再検証を行うことが、弁護側にとっての重要な防衛策になると考えられます。
【次回予告】次回は日野町事件「指紋鑑定における特徴点12点未満一致の証拠価値について」を取り上げます。
(2026年08月22日公開)
