1 はじめに
その1では、現場のフェンスから採取された遺留指掌紋が、2年の歳月を経て被疑者である甲氏の掌紋と一致し、罪名が強制わいせつ致傷へと格上げされるまでのプロセスを追いました。
掌紋の一致という有力な客観的証拠を前に、否認を続ける甲氏の弁護活動は極めて難しい局面を迎えます。しかし、この一見確実に見える証拠の背景には、捜査機関が依拠するストーリーによる先入観が潜んでいました。
今回は、弁護側から依頼を受けた弊社が、警察鑑定を再検証していくプロセスを明かします。本事案は、最終的に検察側が起訴を取り下げるという異例の結末に至りましたが、その背景には、転写シートに残されたわずか29mmの痕跡と、そこから見出された科学的事実がありました。指紋証拠を適正に評価するための3つのステップを実例からお伝えします。
2 被疑者の否認と、弁護側からの再鑑定依頼
掌紋の合致という有力な証拠により、強制わいせつ致傷罪(当初は暴行罪)で逮捕・起訴された甲氏でしたが、彼は捜査段階から一貫して「自分は絶対にやっていない」と犯行を否認し続けました。
甲氏は否認の根拠として、「事件が発生する7日から15日ほど前に、用事があって(空き巣の下見)現場付近に行ったことがある。その際にフェンスに触れたかもしれないが、事件当日に女性を襲った覚えはない」という旨を供述していました。
しかし、捜査機関は「屋外にあるフェンスに、そのような何日も前の掌紋が残るはずがない」として、甲氏の主張を全面的に退けたのです。
確かに、風雨や紫外線の影響を受ける屋外の指掌紋は屋内に比べ消滅しやすく、捜査機関側が甲氏の供述を否定した背景には、このような判断がありました。
こうして、警察による鑑定書を根拠として公判が維持される中、追い詰められた弁護側は、警察鑑定書の正確性を別の視点から検証する必要があると考え、民間鑑定機関である弊社に警察鑑定書の精査を依頼しました。
弊社において警察側の鑑定書を詳細に検証したところ、いくつかの重大な疑問点が浮上しました。現場から採取された遺留掌紋の画像に一部不鮮明な箇所が見受けられたほか、比較対照となる甲氏の掌紋にも一部に押捺不足があり、手のひらの特徴が十分に写し出されていなかったのです。
これでは、確実な異同識別(同一性の検証)を行うことはできません。私たちは、警察側の鑑定結果を適正に評価するためには、遺留掌紋の現物を再度撮影し、さらに甲氏の掌紋を新しく再押捺してもらった上で、一から照合し直す必要があると結論づけました。
2013年(平成25)年3月12日、弊社から2人の鑑定人が宮城県へ出張しました。限られた時間の中で再照合に必要な資料を収集するため、作業は午前と午後に分けて過密スケジュールで行いました。
午前中は、仙台拘置所にて検察事務官の立会いのもと、弁護人を通じて押捺用具一式を差し入れし、面会室のアクリル板越しに甲氏へ押捺指導を行い、かすれのない極めて鮮明な甲氏の掌紋資料を宅下げして入手。午後は、仙台地方検察庁において、検察官らの立会いのもとで、遺留掌紋の直接観察と、写真撮影をしました。
これにより、警察の鑑定書に添付されていたものよりも鮮明な遺留掌紋の画像を入手することができました。私たちはこれらの資料を手に、事務所での本格的な再照合へと移行しました。
3 転写シートの「29mmの空白」と、設計図面による比較
事務所に戻った私たちは、現地で入手した鮮明な画像をもとに、警察が一致と判断した遺留掌紋と、新しく押捺した甲氏の掌紋との再照合を行いました。
結論から申し上げますと、現場に遺留されていた掌紋が甲氏のものであるという同一性の点については、警察側の鑑定結果どおり間違いありませんでした。
しかし、私たちが着目したのは、「その掌紋が、どのような状況で付着したのか」という付着状況の分析でした。遺留掌紋の画像を詳細に分析したところ、掌紋を採取した転写シート[1]の中に、幅29mmの空白箇所が残されていることが判明したのです。
以下に、警察が採取した転写シート全体像の撮影画像を示します。
画像1 警察採取の転写シート撮影画像

画像1において1本目~3本目と書いてある筋痕部分は、フェンスの横桟の角に当たる部分を指しています。1本目と2本目の間隔は約16mm、2本目と3本目の間隔は約29mmでした。この2本目と3本目の間が空白箇所です。また、黄色矢印の方向が、掌紋の向き(指先方向)です。
私たちは、この空白が持つ意味を解き明かすため、現場に設置されていたフェンスのメーカーや、外構工事会社に対してフェンスの名称、型式などについて詳細な照会を行いました。警察が作成した現場の実況見分写真だけでは、当日の光線の当たり方や影の影響によって、フェンスの細かな立体構造や正確な寸法までは明確に割り出すことができないためです。
その結果、該当するアルミ製フェンスの正確な製品名や型式が特定され、メーカーから当時の詳細な設計図面を取り寄せることに成功しました。そして、この設計図面と、転写シートに残された幅29mmの空白を精密に比較・計測した結果、重要な事実が浮かび上がりました。
以下に、現場フェンスと同形式のフェンスの画像を示します。
画像2−1 現場フェンスと同形式のフェンス画像

画像2−2 画像2−1の拡大画像

画像2−3 画像2−2の反対側から撮影した画像

まず、このアルミ製フェンスは、画像2−2と画像2−3を見てもわかるように、裏表で構造や格子の形状が大きく異なっており、かつ画像2−2に示すとおり、高さ約16mmの下方29mmの部分は空洞になっています。
上記の画像2−2のフェンスを計測した寸法と、警察が採取した転写シートの筋痕の寸法を合わせると、画像2−1の撮影者方向から、以下のようにして掌紋が転写されたことがわかったのです。
画像3 転写時の再現図

実際の現場では、画像2−1の撮影者側が畑側であり、その反対側(画像2−3の撮影者側)が民家の敷地側でした。
警察の犯罪立証では、犯人は「居宅側からフェンスを乗り越えて、畑側へ逃走した」とされていましたが、実際にフェンスに残されていた掌紋の向きは、それとは真逆、すなわち畑側から居宅側に向かって付着していたのです。この結果は、警察の主張する行動動線と明確に矛盾するものでした。私たちは、この掌紋の付着状況および向きに関する客観的な矛盾を「掌紋印象状況鑑定書」という1冊の報告書にまとめ、弁護側に提出しました。
注/用語解説 [ + ]
(2026年08月22日公開)
