
袴田事件(1966年)の再審(やり直し裁判)で2024年9月に静岡地裁が言い渡した無罪判決をめぐり、検察が控訴を断念する際に出した畝本(うねもと)直美・検事総長(当時)の談話で犯人視され名誉を毀損されたとして、元プロボクサー袴田巖さん(90歳)が国に550万円の損害賠償と謝罪広告の掲載を求めた国家賠償請求訴訟の第3回口頭弁論が8月6日、同地裁(平山馨裁判長)で開かれた。
国は「談話には『袴田さんが犯人である』との記載はなく、そう受けとめられないよう留意した表現を使っている」「再審無罪という結論ではなく判決理由中の判断に問題があることを指摘している」として、名誉毀損を改めて否定する準備書面を提出した。袴田さんの弁護団は反発している。
最高裁判例は「一般読者の読み方で判断すべき」
この訴訟では、検事総長談話が、1997年の最高裁判決が示した名誉毀損の成立要件に該当するかどうかが争点になっている。
民事裁判で名誉毀損が認定されるかどうかは、争いになっている表現を「事実の摘示」(真実か虚偽かにかかわらず具体的な事柄〈事実〉を公表すること)と「意見・論評の表明」(感想や評価を述べること)とに分類したうえで判断される。表現の自由にかかわる「意見・論評」よりも、証拠によって表現の真偽を確認できる「事実の摘示」のほうが成立する余地は大きい。
1997年の最高裁判決は、どちらになるかは「一般の読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべき」と説いている。その際、記された用語だけでは判別できなくても、①前後の文脈や一般読者の知識・経験を考慮し、間接的・婉曲に主張していると理解される場合や、②前後の文脈などの事情を総合的に考慮すると叙述の前提として黙示的に主張していると理解される場合には、「事実の摘示」に当たるとした。
静岡地裁は第1回口頭弁論で弁護団に対し「一般の人の読み方を前提に(談話が名誉毀損に当たるという)判断過程を明らかにしてほしい」と要請した。これを受けて弁護団は前回の口頭弁論で「一般人の注意と読み方を基準とすれば、談話は袴田さんが犯人であるとの事実を摘示したものだ」とする準備書面を提出しており、国は今回これに反論した(弁護団の準備書面の内容については本サイトの拙稿をご参照ください)。
「再審判決の結論ではなく理由に問題がある」
国は今回提出した準備書面で、談話を「再審判決について不控訴という判断をした経緯や理由を説明するため、その前提として判決の理由中の一部の判示に対する検察の意見や評価に言及した」と位置づけた。最高裁判例に照らし、一般人の読み方によっても「間接的・婉曲に、あるいは黙示的に『袴田さんが犯人である』と主張していると理解されるものではない」と弁護団に対抗した。
弁護団が談話の中で最も問題視しているのは「再審判決は控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容であると思われる」と明記した部分だ。弁護団は「間接的または黙示的に『犯人は袴田さんだから無罪判決には事実誤認があり破棄されるべき内容だ』という事実を摘示した」と解釈している。
これに対し国は、このくだりで使われている「内容」という文言が重要だとし、「有罪であるべきとか無罪が誤りであるというように再審判決の『結論』そのものを直接評価する表現を用いておらず、再審判決の理由中の内容に問題があることを繰り返し表現しているだけだ」と、審理の当初に提出した答弁書と同じ文面を再掲した。
さらに「『控訴して』は『上級審の判断を仰ぐ』際の手続過程を表現したもので、『上級審の判断を仰ぐ』は再審判決の理由中の一部に疑問や不満があり、同部分に限ってはただちに受け入れがたいことを述べるにとどまる」と論理展開し、「再審判決の主文(結論)が誤りだから控訴すべきとの趣旨を含むものではない」と力説している。
「過去の事実について経緯や理由を説明した」
検察が再審公判で「袴田さんが犯人であることの立証は可能との判断の下、有罪立証を行うこととした」と述べたくだりについては「検察が再審公判に臨む方針を決めた2023年7月の時点における検察の考え方を記載した」とし、「再審公判では一貫して有罪立証をしたという過去の事実について、その経緯や理由を説明した」と読み解いた。
そのうえで、談話を出した「2024年10月の時点でもなお、検察が袴田さんを犯人であると主張していると解することは到底できない」と強調。弁護団が「袴田さんが4人を殺害し放火した犯人であると主張することに他ならない」と咎めているのに対し、「一部の文言を切り取って評価した」との批判も織り交ぜた。
談話に「再審開始を決定した2023年3月の東京高裁の決定には重大な事実誤認があると考えた」と記したことに関しても、同様に「検察が2023年3月当時、再審開始事由があると判断した決定には重大な事実誤認があると考えていた趣旨」であり、一般の読者が「2024年10月の時点でもなお検察が(再審開始)決定は誤りで確定審(の死刑)判決が正しい、すなわち袴田さんが犯人であると主張していると理解するとはおよそ考え難い」との見解を示した。
「5点の衣類だけが有罪立証の根拠ではなかった」
談話の特徴の1つは、袴田さんの犯行着衣とされてきた「5点の衣類」をめぐり、再審無罪判決に対し「捜査機関の捏造と断じたことには強い不満を抱かざるを得ない」と激しい言葉を浴びせたことだ。
弁護団は「犯人性に関する重要な証拠である5点の衣類についての再審判決の認定を非難したのは、袴田さんが有罪=犯人だとみていることに他ならない」と糾弾している。これに対し国は「弁護団は再審公判における検察官の主張を正解していない」として、準備書面に「付言」をした。
検察は再審公判で、有罪立証の根拠として5点の衣類のほかに①犯人の事件当時の行動を袴田さんが取ることが可能だった、②袴田さんが犯人だと裏づけるその他の事情が存在する——の2点を挙げていたとし、「5点の衣類のみが袴田さんの犯人性の根拠だと主張していたのではない」と指摘。談話には再審判決が5点の衣類以外の2点も排斥したことへの批判はなく、「5点の衣類に関する再審判決の判示に対する検察の意見・論評を述べた記載があるにとどまっている」と論拠を記した。
国「談話の公表は必要かつ相当」と請求棄却を求める
弁護団は「一般読者の普通の読み方」を裏づける証拠として、談話をテーマにした民放テレビ局とインターネットテレビ局によるYouTubeの動画への視聴者コメントを提出し、「ほとんどのコメントが談話は袴田さんを犯人である旨を指摘していると認識している」と言明している。
これに対し国は、もとになった動画は、談話の記載内容に触れなかったり独自の誤った解釈を述べたりしていると否定的に捉え、コメントは「一般の読者の普通の注意と読み方を表すとは到底言えない」と受け入れない姿勢を明確にした。
また、談話公表後の法相の記者会見での答弁や、袴田さん宅を謝罪に訪れた静岡地検検事正の発言を引いて、「検察は談話を公表した当初から、無罪判決を受け入れ、これを確定させる以上、今後一貫して袴田さんを犯人視する意図がないことを明らかにしている」と自らの主張を補強した。
国は、検事総長の談話が国賠法上の賠償責任を負うかどうかは、①公表の目的、②公表の必要性、③公表内容の相当性、④公表によって予想される利益侵害の内容、⑤公表方法の相当性——を考慮して判断すべきだと立論。いずれもクリアされているとして「談話の公表は必要かつ相当なもので、国賠法上の違法性は認められない」と結論づけ、弁護団の請求を棄却するよう改めて求めた。
弁護団「談話を正当化するために詭弁を弄している」
弁護団は口頭弁論の終了後、静岡市内で記者会見を開き、国の準備書面に反発した。
弁護団長の小川秀世弁護士は「国は、談話に記したのは判決理由への不満であり無罪への不満ではないとしているが、判決理由への不満を述べても控訴しない理由にはならない」と批判。「控訴すべき」との談話の記載を取り上げ、「無罪に対し不服でなければ控訴はできず、論理的におかしい」と力を込めた。
戸舘圭之弁護士は「犯人視していないなら、検察はなぜ再審公判で死刑を求刑したのか。無罪が確定する段階で検事総長が『犯人』という趣旨のことを公言するのを、袴田さんは甘受しなければならないのか。国は談話を正当化するために詭弁を弄している」と語気を強めた。
弁護団は次回の口頭弁論で、国の準備書面への反論を提出する。また、請求の根拠の1つに据えている「確定無罪判決尊重義務」をテーマに刑事法学者の意見書を出す予定だ。
検事総長の釈明は「苦し紛れの言い訳」
談話を出した畝本氏は8月12日に検事総長を退任し、その際の記者会見で談話について「検察の判断プロセスを説明したもので、袴田さんを犯人視するものではない」と釈明したという。これを受けて袴田さんの弁護団は同日、オンラインで記者会見を開いた。
小川氏は「控訴する理由は無罪判決への不満しかあり得ないが、そうは言えないから苦し紛れの言い訳をしている」と切り捨てた。袴田事件への畝本氏の対応に関しても「冤罪がなぜ起きたのか、(再審無罪判決が認定した)証拠捏造や違法な取調べなどを制度や組織の問題として真摯に検証せず、何も進展しなかった」と酷評した。
戸舘氏は「検察トップの責任として、袴田事件が冤罪で無罪判決まで事件から58年かかったことへの反省の言葉がほしかった」との受けとめを明かし、「談話が絶対に許されないことを、国賠訴訟を通じて司法の場で明らかにしないといけない」と決意を新たにしていた。
◎著者プロフィール
小石勝朗(こいし・かつろう)
朝日新聞などの記者として24年間、各地で勤務した後、2011年からフリーライター。冤罪、憲法、原発、地域発電、子育て支援、地方自治などの社会問題を中心に幅広く取材し、雑誌やウェブに執筆している 。主な著作に『袴田事件 これでも死刑なのか』(現代人文社、2018年)、『地域エネルギー発電所──事業化の最前線』(共著、現代人文社、2013年)などがある。
【編集部からのお知らせ】

本サイトで連載している小石勝朗さんが、2024年10月20日に、『袴田事件 死刑から無罪へ——58年の苦闘に決着をつけた再審』(現代人文社)を出版した。9月26日の再審無罪判決まで審理を丁寧に追って、袴田再審の争点と結論が完全収録されている。
(2026年08月19日公開)