事件の風土記《7》

【みどり荘事件】青空の下で、汗を流して働きたい

みどり荘事件

毛利甚八


  • 輿掛良一さん。現在は仕事仲間の経営する会社で、高速道路の工事現場で朝早くから働いている。「無罪になってから、書いた記者と会いましたが、彼は謝りませんでした」。

 「みどり荘事件」が起きたのは1981年6月下旬のことだ。大分県大分市の短大に通う女性が、アパートの自室で強姦され、絞殺されたのである。輿掛良一さんは当時25歳、事件の起きた部屋の隣りで、恋人と同棲していた。事件が起きたのは深夜で、午前零時をはさむ約1時間。隣室の輿掛さんは1人で酒に酔っており、テレビをつけたままヘッドフォンでレコードを聴きながら眠り込んでいた。目を覚ましたのは、アパートに到着したパトカーのサイレンが鳴り響いたためだった。部屋を出た輿掛さんは、アパートの周囲を捜査していた私服警官を怪しんで「何しよるか」と問いただしている。その後、別の隣人と「事件が起きたらしい」と話し、駆けつけた新聞記者の取材に答えた。その青年が半年後に、被疑者として逮捕されてしまうのだ。「代用監獄の風呂場は汚かった。冬で寒かったから、みんな湯船の中で垢を落とすんです。でも、そのドロドロの湯に浸かるしかない」(輿掛さん)。

 おそらく疑われた理由は2つ。輿掛さんがアパートに住む唯一の男性だったから。そして、警察が真犯人の手がかりを掴めず、捜査が行き詰まっていたからだ。警察に逮捕されてから4日の間に、食事はわずか3回、風邪をひき発熱した状態で、朝から深夜まで長時間の取調べを受けた。輿掛さんの弱味は、犯行時刻のアリバイを、眠っていて「覚えていない」ことであった。取り調べた警官は、現場の部屋に輿掛さんの陰毛や頭毛、指紋が残っていたと嘘をつき、「お前は覚えていなくても、夢遊病者のように犯行現場に行ったのだ」、そう自白を迫った。追い詰められた輿掛さんは母親に会いたいと泣き崩れ、「(被害者の)部屋にいたことは覚えている」と虚偽自白をするに至る。ただこの一言が、彼を12年8カ月もの間、被告人として拘置所に閉じ込める結果となるのである。

 輿掛さんは大分地裁の第一審で無期懲役の判決を受け、福岡高裁に控訴した。弁護団は第二審で次のように主張した。証人の一人が事件の物音を聞いた際、「神さま、お許しください」と泣き叫ぶ声を聞いており、真犯人は深い信仰を持つ、被害者と親しかった人間だったと思われ、輿掛さんとは別人であった。科学警察研究所の毛髪鑑定も、高裁が職権で行ったDNA鑑定も、現場に残った毛髪や精液が輿掛さんと同一であるとするが、鑑定方法は杜撰であり、科学の名を借りたインチキである。第一審で2名だった弁護人は、最終的に13名となり、それぞれの得意分野を引き受けて弁論要旨を書き上げ、科学鑑定に詳細な批判を加えた。弁論要旨は全文492ページの膨大な量となった。しかし、この弁護活動のもっとも際立った特徴は、無期懲役となった第一審の弁護活動の誤りを弁護人自身が率直に認めたことだった。

 《(第一審の)第一回公判調書には、本件公訴事実に対する弁護人の意見が次のように記載されている。

 「被告人に犯行当時の記憶がないということであり、検察官請求予定の証拠では、本件の証明は不十分と思料されますし、有罪とは言えないと考えます。」

 (控訴審の)本弁論のため、本件各証拠の再検討を進める過程で原審弁護人らが何度この意見陳述を悔悟と苦渋を持って読み返したことであろうか。

 これほどの重大事件の第一回公判期日を迎えながら、私達には深い霧の中を彷徨うが如き戸惑いがあった。

 その戸惑いは、被告人の供述調書を開示され、その異様さに直面したときから始まった。

 ここには、新聞報道で、全面供述と伝えられていたその「欠けら」も認められなかった。》

 輿掛さんが絶食状態で長時間の取調べを受けた過酷さを弁護人が理解できず、警察に嘘の証拠をつきつけられ、「母親に会わせる」代償として不利益供述が強制されたことを知らなかったとして、次のようにつづく。

 《弁護人として、恥づべきことに、私達は供述調書へのその疑問を、被告人との会話の中で、被告人との人間関係を樹立する過程で解きほぐしていく努力を全面的に怠ってしまった。報道されたところの被告人は「自閉症」との先入観が、私達自らの許し難い偏見の故に私達からその努力を萎えさせてしまったのである。

 その結果として、私達は、被告人との接見の確保を怠たり、原審の審理を迎えるにあたって、被告人に対し、その強制された思い込みが虚偽であることを気付かせる契機を与えることができなかった。

 被告人が、原審公判廷で「被害者の部屋にいたことは覚えている」との不利益供述を維持した責任の一半はまさしく私達にある。》

 德田靖之弁護士の語りに、傍聴席からすすり泣きが漏れ、弁論が終わると大きな拍手が湧いた。

 すると、厳しい声が法廷に響いた。

 「静かにしなさい」。

 声の主は永松昭次郎裁判長だった。「立派な弁論に失礼じゃないですか」。判決は最終弁論から4カ月後の1995年6月30日だった。永松裁判長は、第一審の認定を次々に厳しい口調で否定していった。「以上の次第であって、本件公訴事実は、結局、犯罪の証明がないことに帰するから、被告人が被害者を強姦した後殺害したとして、被告人に有罪の言渡しをした原判決には、事実の誤認があり、その誤認が判決に影響を及ぼすことは明らかである。(中略)本件公訴事実については犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法336条により被告人に対し無罪の言渡しをすることとし、主文の通り判決する」。

 逮捕されてから14年6カ月後の完全無罪判決だった。検察は上告を断念した。

 輿掛さんが日額約1万円の刑事補償を受けた後、弁護団は国家賠償訴訟の提起を見送ることにした。「現在の国家賠償訴訟では、捜査側の過失があったかどうかに絞って考える傾向があります。すると裁判所はやむをえなかったという判断をしがちです。結局は、裁判所が捜査側にお墨付きを与えることになってしまう。刑事事件の完全無罪で十分だと考えたんです。それから、輿掛さんを一刻も早く解放してあげたかった。弁護団でかなり議論をしたのですが、冤罪被害を回復する道を選んだんです」(德田靖之弁護士)。

 控訴審を終えた輿掛さんは職業訓練所に通い工事用大型機械の操作を学んだ。そして採石場で2年働いた後、刑事補償を元手にダンプカーを購入し独立した。「青空の下で、汗を流して働きたい」。やがて、市民運動のなかで知り合った女性と愛し合い、結婚することになった。

 媒酌人は德田靖之弁護士であった。

(季刊刑事弁護65号〔2011年1月刊行〕収録)

(2020年02月18日公開)


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