刑事弁護の情報と知が集まるポータルサイト

大出良知 九州大学・東京経済大学名誉教授・弁護士

深謀無遠慮 第6回

治罪法の下における刑事弁護


 前々回前回と、明治初年に本格的な刑事手続についての体系的な法典である治罪法が制定されるまでに刑事弁護についてどのような動きがあったかを簡単に紹介してきました。裁量的に代言人による弁護が認められることになり、前回紹介した金丸鐵の刑事弁護論が主張された頃には、政府内にも西洋に倣った刑事手続の導入を主張する意見があり、司法省内部でも、弁護人選任権を認めるべきか否かについて論争があったと言われています。

1 条約改正のために不可欠な刑事弁護人制度

 フランスへの留学経験があり司法省議法局修補課起草委員になった磯部四郎が、1879(明治12)年に「刑事弁護人ヲ許スノ議上申案」を提出し、「今ヤ我邦独リ詞訟ニ代言ヲ許サレ未タ刑獄ニ之ヲ許サレス豈ニ一大欠典ト謂ハサル可ケンヤ」と主張したといいます。要は、民事訴訟(詞訟)だけでなく、刑事訴訟(刑獄)にも弁護(代言)を認めるべきであるということです。ところが、修補課委員10名のうちこの提案に賛成したのは2名のみであり、8名は反対であったため、この提案は葬り去られることになったということです。(穂積陳重『続法窓夜話』〔岩波文庫・1980年〕114頁)。

 その委員の反対意見として紹介されるのは、代言人の質を問題にする意見です。具体的には、「之ヲ実際ニ徴スルニ、詞訟代言人タル者、狡黠貪婪今日ニ於テ其弊ヲ矯正セザル可カラズ。之ヲ刑獄ニ許ス、其弊安ゾ詞訟ニ同ジカラザルヲ保スルヲ得ンヤ。」であったり、「其弁護ハ罪囚ノ冤枉ヲ伸ベ其屈辱ヲ雪グニ適セズシテ、却テ其強戻狡猾ヲ媒助スルノ好具タランノミ。」というのです(穂積・前掲115頁)。

 とはいえ、条約改正のためには、刑事弁護の容認は不可欠であり、その翌1880(明治13)年に制定・頒布され、1882(明治15)年1月1日に施行された治罪法は、ボアソナードが起草の中心にいたこともあり、フランス法の影響の下に初めて被告人に弁護人選任権を認めることになりました。その施行までには、前述のような反対論に応えるということでもあったのでしょうが、代言人規則が改正され、その担い手である代言人の免許を受けるためには「刑事ニ関スル法律」はじめ4科目の試験に合格しなければならないことになりました。

2 着々とすすむ裁判所制度の整備

 また、裁判所制度の整備も行われ、それまでの区裁判所を治安裁判所、地方裁判所を始審裁判所、上訴裁判所を控訴裁判所と改称し、治罪法は、治安裁判所に違警罪事件の裁判を担当させ(49条)、始審裁判所に軽罪事件の裁判と重罪事件と軽罪事件の予審を担当させ、さらに違警罪裁判に対する控訴審を担当させ(54・338条)、重罪事件の裁判を、始審裁判所と控訴裁判所に担当させ(71・72条)、控訴裁判所には、軽罪事件の裁判の控訴も担当させることにしました(63・365条)。因みに、最上級裁判所としては大審院があり、上告(410条以下)や再審(439条以下)を担当していました。なお、重罪の裁判には、控訴は認められず、上告だけが認められていました。

 ところが、実際にはその通りには機能しなかったようです。特に、違警罪を治安裁判所で裁判させる点は、実質的に骨抜きになり、警察署に処理させることにしたり、予審を必要としないと検察官が判断した軽罪を治安裁判所に裁判させたりしていたようです。(兼子一ほか『裁判法〔第4版〕』49頁以下参照〔有斐閣・1999年〕)。

 因みに、違警罪は、現在の軽犯罪法に規定される犯罪類型に相当し、拘留・科料にあたる軽微な罪。軽罪は、重禁固、軽禁固または罰金の刑に当たる犯罪。重罪は、死刑、無期徒刑、有期徒刑、無期流刑、有期流刑、重懲役、軽懲役、重禁獄、軽禁獄の9種の刑に当たる犯罪ということになっていました。

3 治罪法での刑事弁護の位置づけ

  以上のような治罪法をめぐる制度的枠組みの中で、刑事弁護がどのように位置づけられていたかを次に確認しておきたいと思います。治罪法の条文自体は、現在は、国立国会図書館のデジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787960/111)で確認することができますが、それ以外で弁護に特化して条文を確認することができる機会はそうあるわけではありませんから、いくらか詳しく紹介しておきたいと思います。

 治罪法では、前述したそれまでの必ずしも積極的ではなかった立法動向を乗り越えて、いずれの犯罪についても弁護人を認めるということにはなりました。ただ、それはまだ、起訴され、公判段階になってからのことでした。すなわち、「被告人ハ弁論ノ為メ弁護人ヲ用フルコトヲ得」(266条1項)とされたのです。その担い手である弁護人は、まだ弁護士法は成立していませんでしたから、前述してきているように「裁判所所属ノ代言人中ヨリ之ヲ選任ス可シ」(2項)ということでしたが、但書があり、「裁判所ノ允許ヲ得タル時ハ代言人ニ非サル者ト雖モ弁護人ト為スコトヲ得」ということになっていました。

 但書は、代言人の人数に関わっていたと考えられます。1881(明治14)年末の代言人の人数は、1200人弱でしかありませんでした(奥平昌洪『日本辯護士史』〔有斐閣・1914年〕1363、1371頁参照)。

 治罪法はさらに重罪事件については、原則として弁護を必要的にするとともに、官選弁護制度を導入しました。「重罪裁判所長又ハ其委任ヲ受ケタル陪席判事ハ公訴状ノ送達アリタルヨリ二四時ノ後……系被告事件ニ付キ被告人ヲ訊問シ且弁護人ヲ選任シタリヤ否ヲ問フ可シ」(378条1項)とし、「若シ弁護人ヲ選任セサル時ハ裁判所長ノ職権ヲ以テ其裁判所所属ノ代言人中ヨリ之ヲ選任スヘシ」(2項)ということにしたのです。

 しかし、この点でも代言人の人数の問題からか、「被告人及ヒ代言人ヨリ異議ノ申立ナキ時ハ代言人一名ヲシテ被告人数名ノ弁護ヲ為サシムルコトヲ得」(3項)ということにしていました。というのも、重罪公判に関してはその実効性を確保するためということでしょうが「弁護人ナクシテ弁論ヲ為シタル時ハ刑ノ言渡ノ効ナカル可シ」(381条)としていたからでもあったと考えられます。

  ところが、それでも代言人の人数を管内で確保することができない裁判所があり、「其刑ノ言渡ハ無効ノ限ニアラサル旨」の布告を上申するといったことにもなり、施行直後(1月9日)には、381条1項について「其裁判所所属ノ代言人無之場所ニ於テハ当分ノ内弁護人ヲ用ヒサルモ其刑ノ言渡ハ無効ノ限ニ在ラス」(太政官1号布告)ということになりました。

4 重罪事件での弁護人の権限

 それでは、重罪事件について必要的に選任された弁護人には、どのような権限が認められていたのかといいますと、前述の378条1項による被告人の「訊問」が行われた後に、判決の言い渡しまでの間、弁護人のみが被告人と接見することができることになっていました(382条1、3項)。さらに「一切ノ訴訟書類ヲ閲読シ且之ヲ抄写スルコトヲ得」(382条2項)ということにしていました。

 ところで、公判前には弁護人としての活動の機会を保障されていたわけではありませんでしたが、勾留状または収監状によって拘束されている場合には、代言人も家族等と同様に「官吏ノ立会ニヨリ」接見することができることになっていました(140条)。被告人が、予審中に予審判事によって単独室に置かれ現在の「接見禁止」と同様の状態である「密室監禁」(143条)にされている場合には、家族等と同様に、予審判事の許可がなければ接見等はできないことになっていました(144条)。

 因みに、「代言人弁護人」のいずれも、医師や神官等や法律家としては代書人や公証人と並び、「身分職業ニ関スル秘密ノ事件ニ付キ委託ヲ受ケタル」場合には、予審でも公判でも証言拒絶権が認められていました(183条・287条)。

 また、被告人は、上訴として、予審または公判の言渡に対して大審院に上告することが認められていましたが(410条)、上告申立人も、弁護人としてということにはなっていませんが「代言人ヲ差出スコトヲ得」とされています。すなわち、代言人に対応を依頼することができるということになっていました。しかも、被告人が重罪の言渡を受けて上告している場合か、検察官から重罪に当たるとして上告されている場合に被告人自ら代言人を選任していない時には、大審院長が「職権ヲ以テ」大審院所属の代言人を選任することになっていました(421条)。

 重罪については、上告審においても必要的に代言人の選任が求められ、場合によっては官選も行われることになっていたということです。但し、官選の謝金は、被告人の負担ということになっていました(大審院諸裁判所所属代言人規則5条〔明治14年12月2日〕国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1704557/56)

5 思い切った立法の実現

 以上のように、刑事弁護の法制は決して充分でありませんでしたし、実際の運用も法制通りに行われていたわけではなさそうです。しかし、なお刑事弁護をめぐる環境が整っていたとは言い難い時期に、ボアソナードの力が与って大きかったことはもちろん、ここで詳しく触れることはしませんが、政府内のみならず、民間でも治罪法制定前後には、憲法制定へ向けて刑事手続における人権保障を求める意見が多く主張されていたということもあったからでしょうが、重罪事件公判について必要的弁護を規定し、官選弁護制度を導入し、弁護人による弁論がない場合には判決の言い渡しを無効にするというのは、当時としては思いきった立法であったと評価することができるのではないでしょうか。

 それにしても、その背景事情には留意する必要があるとはいえ、その担い手の質的・量的対応力の問題は、近代的制度成立時からの課題であったことも銘記しておく必要があるでしょう。

 なお、主としてわが国の太平洋戦争敗戦前の刑事手続法の歴史的展開の詳細については小田中聰樹『刑事訴訟法の歴史的分析』(日本評論社・1976年)があります。治罪法に関わっては、128頁以下を参照させてもらっています。

(2020年05月20日公開) 


こちらの記事もおすすめ