call4 stories

第6回

高橋敏明さんと鬼怒川大水害国家賠償訴訟のストーリー

目に見える爪痕、目に見えない爪痕


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再建の3年間

 「あの晩は落ち込んだね。再建は無理だろうと思いました」

 「でもそのあと、娘と話し合って、娘の励ましもあったりして、なんとか頑張らなきゃという気持ちがわいてきた。生産からだと45年、せっかくここまでやってきたのに、このままあきらめるのもなんだろう、と思った。幸運なことに、ついてきてくれる社員もいました」

 そこから再建の3年間が始まる。

 「まずは泥出し、清掃、後片付け、処分、そんなことから始めた。それが何ヵ月もつづいた。泥出しは苦しかった。悪臭がすごくて、不衛生極まりない。精神的にも落ち込むし、肉体的にもね、あまりに不衛生で、体調を崩してしまう」

 「お花がかわいそうでした。花というのは売れるようになるまでに何年もかかる。だから、手塩にかけて育ててきた花を出荷するときは、娘を嫁に出すような気持ちになる。それが一瞬にしてなくなってしまうわけ。なんといっていいか……辛かったですよ」

 「経営者としても苦しかったですね。少ない蓄えを切り崩しながら、なんとかつないでいく毎日。でもどれほどつらくても、こんな状況の中でついてきてくれた社員の前では落胆している表情を見せられない。苦しいといえない苦しさがあった。あれは言葉では言い表せないです」

 「3年間、苦しかった。家族や従業員、のべ1000人のボランティアの方たちに支えられてなんとかここまで戻ってきたけれど、自分だけではとても無理でした」

たくさんの喪失

 しかし高橋さんが苦しかったのは、花き園芸会社の再建だけではなかった。

 「さきほど、農家の長男坊同士、いろんな悩みも打ち明けあった幼なじみの話をしましたけど、彼のところも被害を受けたんです」

 「あいつの家は代々続く大きな農家でね。私たちは小学校、中学、農業高校とずっと同じクラスだった。大人になってからも、地域の青年部とか消防団に一緒に所属して、何年も一緒にやってきた。穏やかな性格で、誰からも好かれるスポーツマンでした」

 「彼のところも水害に遭って機械も施設も全滅した。再建しようとしても、補助金で賄えない分は借金しないといけない。とても無理だと判断して、彼は離農しました」

 「彼はそれをずっと悔やんでいた。昔から引き継いできた大きな農家を守れなかった、先祖に申し訳ないって。私もあいつが悩んでいたことはわかっていたけど、どう言葉をかければいいか分からなかった。借金してまで再建しろとは言えなかった」

 「彼は水害から1年後に亡くなりました。精神的に落ち込んでいたのが体にも影響したのだと思う。遺族には関連死の申請をしたらという話もしたけれど、できなかったみたいだ。苦しくて申請ができなかった遺族はほかにもいると聞きます」

 高橋さんが失ったものは会社の資産ばかりではなかった。亡くなった幼なじみの家は、自然の堤防が掘削されて水があふれ出た土手の、すぐ裏にあった。

土手にのぼると

 私たちは川辺に足を運んだ。

 とにかく風が強かった。土手に上ると、川から吹き付ける西風が私たちのほほをしたたか打つ。砂粒まじりの風が痛くて、冷たくて、鼻の奥がちりちりという。見下ろすと、防砂林となっている林がカリッと不自然に途切れているような場所が見えた。

 「ここ若宮戸の沿岸部は、ずっと昔から、砂丘林が自然の堤防の役割を果たして私達を守ってくれていました。その砂丘林は民有地でしたが、ところが国はそこを河川地域に指定することなく放置した為に、民間業者による掘削を止められず認めて、堤防のない状態にしてしまった」と高橋さんが衛星写真を見せながら説明してくれる。

 「こんな大きな川なのに、堤防がないなんて考えられないですよね。草一本持ち出してはいけないと代々言い伝えもあったような場所です」

 「危ないのは誰の目から見ても明らかだった。このままだと水位が上がったらすぐに町に水が入ってしまうと住民は指摘して、鬼怒川を管理する国土交通省に何度も対策を頼んでいた。でも国交省がとった対応といえば、80cm程度の大型土のうをロープでくくりもせずに、2段並べただけ。無堤防状態は放置されたままだった」

 掘削されてから1年が経ったころ、水害のきっかけとなる豪雨が降った。あっという間に沿岸は、住民の危惧していたとおりになってしまった。

(2021年05月28日) CALL4より転載

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