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第23回

野村ダム緊急放流による水害訴訟をめぐるストーリー

「両親は帰ってこない。それでも事実を知りたいと思った」


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何がこの緊急放流を引き起こしたか

 この浸水の速さは明らかにダムからの緊急放流によるものだったと、野村水害訴訟の代理人を務める奥島直道弁護士が説明する。

 「水害時の資料を見ると、管理事務所は、7月7日の早朝、ダムへの雨の流入量が急に増えているのを把握していた。流入量は、4時には毎秒600立方メートルになり、その後も増えていた。それでも管理事務所は放流量を増やさずに、ダム操作規則に従って毎秒300立方メートルしか放流しなかった。堤防整備が行われて、毎秒700立方メートルは流せるというのに……。」

 「流入量と放出量の差は広がるばかり。そのままではダムが満水になるのは明らかだった」

 野村ダム管理事務所長は、6時になってようやく最悪の事態に気づく。所長は、6時8分に「大変なことになります」と西予市に連絡をした。ダム事務所は慌てていたのだろう。 6時20分に緊急放流を始める旨の連絡を西予市にできなかった。「緊急放流を6時20分にしました」という西予市へのFAXは、17分遅れの6時37分に発信されている。

 国側は、「ダム管理事務所は『ダム操作規則』に定められた放流量を放流したのであり、最大流入量がいつの時点になるかを予測はできなかった」という。

入江さん・小玉さんが浸水に遭った肱川東岸に設置された看板

規則の不備、硬直的な運用

 「しかし事務所は事前にホットラインで、西予市に対して「300ミリを超える雨量」と話しています。そもそも、野村ダムを運用するための規則である『ダム操作規則』が1996年に、大規模洪水に対応できない内容に変更されたのが問題でした」奥島弁護士は説明をつづける。

 改正前までの規則では、洪水時には、河道の整備状況から毎秒500立方メートルの放流を行うことができ、流入量が増えた場合には放流量も増やすことになっていた。

 しかし改正によって、洪水調節量は300立方メートルと減らされ、流入量が増えても放流量を増やせなくなった。そのため、大規模洪水の場合には、緊急放流するより他に方法がない状況となった。

 「甚大な被害が生じる大規模洪水に対応することがダムの目的のはず。野村ダムの元々の基本計画も、大規模洪水を念頭に置いて、毎秒1,300立方メートルの流入量を300立方メートルカットして、毎秒1,000立方メートル流すことになっていました」と奥島弁護士。

 「国土交通省河川部は、2001年に操作規則の参考例を各地方整備局に示しています。そこでは、流入量に対応できるように『一定量一定率放流方式』が原則とされ、気象状況にも対応できる例外規定が記載されています。しかし、四国地方整備局はこの指示を無視して、大規模洪水に対応できない操作規則をそのまま運用してきました。2004年、2005年にも大きな被害が生じています」

下校する子供たち。手前の家の白壁の、水色に塗られた部分まで浸水したという

 治水とは、水害や土砂災害から人間の生命・財産・生活を守るために行う事業である。

 「もっと前、2004年、2005年の水害のときに裁判をして、この操作規則のおかしさを問えばよかった。野村ダムの被害の報を受けて、私は思いました」と奥島弁護士。

 「そうすれば規則は変わっていたかもしれない、野村ダムでも緊急放流が起こらなかったかもしれない、誰かの命を救えたかもしれないと」「今回はこのまま終わらせてはいけない」と、奥島弁護士は弁護団を結成した。

 2019年、四国地方整備局は野村ダムの操作規則を変更する。流入量に応じて放流量を増やしていく——これまでの規則の不備が認められた形である。

下流から見上げる野村ダム。豪雨の際にはこのダムから水が溢れた

訴訟に至るまで

 弁護団の一員である粟谷しのぶ弁護士は、「現場を見て、私も、この被害は豪雨によるものというより、緊急放流の影響によるものであるはずと考えました」と声を添える。

 「緊急放流によって人が亡くなったということに対して、その理由と責任が問われるべきです」

 「水害直後は、情報もないまま、両親の死を悲しんでいました」原告団の中で一番初めに立ち上がることを決めた故・大森さん夫妻の長女が振り返る。

 「病院で両親に対面したときの辛い気持ちは、今でも癒えない」

 彼女は、ブルーシートの下に横たえられていた両親の遺体を今も見ているかのように、目を伏せる。しばらく話を止めて、震える声で言葉を継ぐ。

 「でも、悲しみに暮れる中で、だんだんと両親の死んだ原因を知りたい、と思うようになった。奥島弁護士や他の原告の方たちと話しながら、両親の死に理由があり、それがただ豪雨のためでなくダム運用のためであったなら、その責任を問いたい、という気持ちになっていきました」

 「知っても両親が帰ってくるわけじゃない。それでも私は、どうしてこのような運用が行われていたか、何のコントロールが問題だったのか、事実を知りたいと思った」

 彼女らが始めた訴訟は、2021年6月30日時点で、西予市と大洲市の被害者とその遺族を合わせて原告32人を数える。

残る爪痕

 町に出て、肱川流域を歩く。

 被害に遭った住民の遺体を収容した病院にほど近い児童館は、水害のときのまま、朽ち果て始めている。建物の中には、カラカラに乾いて亀裂の入った土砂の層が見える。砂塵が舞い、玄関先で踏んだガラスがパキッと音を立てた。

 夫妻が亡くなった家は取り壊されたまま、空き地になっている。流された入江さんの家はもうなく、今は亡き善彦さんの経営していた印刷屋だけが再建されていた。

 「どうしても、入江善彦という人がいた証を守りたいと思って。本人も死んで、家もお店も流されて、悔しくて」

 入江須美さんは、亡くなった夫の入江善彦さんのことを話しながら言葉を詰まらせる。

 「夫は高校でバスケットボールを教えていました。そのときの教え子たちが、今でも休日になると、印刷屋の前をドリブルしながら通ってくれるんです」

 「教え子たちが今でも忘れずにいてくれているのを見て、死んだ夫のために問題提起をできるのは私しかいないって、気持ちを新たにしました」

 入江さんは原告団の代表を務めている。

 「ダムの役割って、洪水時に流域住民を守ってくれるもののはずだった。そんなダムの水で、なんで人が死んだのか。はっきりさせないといけないと思いました」

体育館も水害の被害を受け浸水した

川とともに生きるために必要なコントロール

 町に爪痕は残るが、ダムはシャワーのように隆々と流れつづけている。しかし晴れた日の放流量は毎秒5立方メートルにも満たないと、野村ダムのウェブサイトで知った。

 あの日、このダムは満タンで、水があふれていた。その大きさに圧倒されながら、60メートルも眼下に川面を見下ろして足がすくむ。こんなにも大きいものを、どうして人の命を守るために運用できなかったのか。

 このダム建設の主目的は治水だった。建設当初の目的は達成されているのだろうか。ダムは整備も緊急対応も含めてダムとしての役割を担うべきなのに、その操作室は管理の舵をきちんと握っていたのだろうか。ダムによる治水は細心の注意を払わないと凶器にもなるということを、管理事務所は分かっていたのだろうか。

 山と海とに挟まれて、私たち日本人の多くは、川のほとり——それも多くは急流のほとり——に住む。流域人口は大規模河川5川だけでも4,000万人を超え、国土交通省の管理下にあるダムも全国100以上に及ぶ。異常気象は増え、都市部にいても地方にいても、頻繁にゲリラ豪雨に遭う。「治水」に無関係でいられる人は少ない。

 午後の日差しが、ダムを囲う渓谷を黄緑色に染めて眩しかった。「水害の翌日も、悔しいくらいに晴れていた」と回想する入江さんの言葉を思い出す。

 今日も悔しいくらいに晴れた春の日。家族を失った人は今も涙を流し、今も川沿いの家に帰っていく。滑らかな肱川の川面が、かすかに泡立つのが見える。

(2022年06月10日) CALL4より転載

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