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毛利甚八

事件の風土記《2》

廣津和郎が残した言葉の闘い

松川事件 その3


  • 廣津和郎の墓碑
    廣津和郎の墓碑。墓碑銘は志賀直哉の筆で、志賀が廣津に贈った鉢の箱書きの文字から起こされた。廣津の骨は隣の廣津家の墓に入っている。

 

 私が東京の谷中霊園を訪ねたのは2月初旬のことだ。まだ蕾もつかない桜並木の道を、金子屋で借りた水桶と柄杓を下げて歩いた。親族と行政の許可をもらって墓碑の写真を撮るにしても、せっかくなら掃除してからがいいだろう。実際、霊園の木立ちに住む鳥たちの無遠慮な排泄物が廣津和郎の墓碑を汚しているのを、下見に来た時に知っていた。

 墓碑を洗っていると、供え物の菓子でもあてにしているのか、1羽のカラスが飛んできて7坪半の廣津家の墓地の、その隣の墓石にちょこんと止まった。こちらを窺っている。

 「おい、君は知ってるか?」と私は言った。「この廣津和郎って人はけっこうえらいんだぞ」。

 カラスは首をかしげながら、居心地悪そうに足踏みをした。

 松川事件が起こった昭和24年は作家・廣津和郎が58歳になる年である。だが廣津が松川事件に関心を持ったのはすでに還暦を過ぎてから、きっかけは「第一審の判決の後大分経ってから、被告諸君の文章を集めた『真実は壁を透して』という小冊子を送られ」読んだことだった。

 《私は被告諸君の文章に嘘が感ぜられないと思ったので、これは或は被告諸君の訴えが真実ではないかとという疑問を起し、第一審の法廷記録を出来るだけ手に入れて、調べてみる気になったのであった》(「事件の概要」廣津和郎『松川裁判』〔筑摩書房、昭和30年6月初版〕4版より引用)

 第二審の判決で、再び死刑を含む有罪判決が下された際、当時のメディアは「被告諸君の文章に嘘が感ぜられない」という廣津の言葉を甘いと嗤った。たしかに率直すぎる物言いだが、廣津にはそれを言うだけの背景があった。

 明治24年暮れに生まれた廣津は、大学を卒業した大正2年からモーパッサンやチェーホフの翻訳を手がけ、やがてチェーホフやトルストイの文業を論じ、「神経病時代」や「悔」といった私小説をなした。父は硯友社全盛期に「深刻小説」で名を挙げた廣津柳浪である。つまり2世作家であった。同じ世代に芥川龍之介や宇野浩二がいた。

 廣津の書き残した作品を読んでみると、華やかな意匠のあるものは少ない。しかし、評論や実名小説に現れる自分以外の作家に注ぐまなざしは渋く、大人びて優しい。推敲を重ねる癖を持つために作品が書けず、ルンペンのような恰好で無心に来る若い作家の行状。自死を目前にした芥川龍之介の不安や憔悴。発狂した親友・宇野浩二との入院行の顛末。廣津は、作家という人生苦の伴走者として、言葉と格闘することの意味を、冷酷でもなくお節介でもない絶妙な位置からそっと肯定する。

 廣津を嗤った新聞記者や裁判官は、廣津が彼らのとうてい及ぶことのできない言葉の目利きであることに無知だったのである。

 廣津は裁判官が書き記した判決文を粘り強く解析していった。それは命がけで書き続け滅亡していった仲間たちの文業を背負いながら、言葉を操る裁判官たちの、社会と人生に対する態度を吟味することであった。

 《赤間被告の自白が検挙から十日足らずでなされたという事を理由に挙げて、判決理由要旨は次ぎのように述べている。

 「この重大な犯罪で、有罪となれば死刑、無期、又は相当長期の懲役に処せられるような事実について、しかも自分ばかりでなく、恩義こそあれ恨みなどあるとも思えない国鉄支部の幹部たる被告人等をも含む数名の者を、そういう重大な危機にさらすような事につき、言葉の先の多少の強制位で、虚偽の自白をするとは考えられない。自白が短時日に行われたという事は、自白が強制によらない、嘘偽でない証拠の一つである。」

 これはなかなかアヤのある文章である。「恩義こそあれ恨みなどあるとも思えない」とか「言葉の先の強制位で」とか甚だ曖昧不正確で、而も意味ありげに物を決定して行くかに見える表現である。(中略)「言葉の先の多少の強制位で」というところを見ると、鈴木裁判長が取調べに「強制」があったという事を知らないわけではないが、それを「言葉の先の」というような形容詞でぼやけさせてしまおうとしている事がこれで解る。こういう表現は物の程度を曖昧にさせていくずるい表現で、重要な事をもそれこそ言葉の先で「軽く」さっさと通り過ぎてしまおうというやり方である。》(「『仮定』と『可能性』の裁判」引用同前)

 これに代表される廣津和郎の判決に対する入念な批評を、当時の最高裁長官・田中耕太郎は「雑音」と呼んだ。この事実は忘れられるべきではない。

 廣津は松川事件の第二審を傍聴し、昭和29年4月から4年半の間、雑誌「中央公論」に裁判批判を書き続けていく。廣津と行動を共にしたのは、「発狂」から立ち直った親友・宇野浩二であり、後方から支援したのは、廣津の目を信じた志賀直哉であった。廣津は連載の原稿料を救援運動に送り、集まった作家たちの色紙や絵画も売られて運動資金となった。それは救援運動の15年間の収入の1割を占めたという。

 私は日本の近代文学に対して浅はかな絶望感を持ち続けていた。大逆事件による幸徳秋水の刑死、軍部による大杉栄の惨殺、築地警察署での小林多喜二の拷問死という、明治末年から昭和初期の思想と権力が衝突した事件を学ぶたびに、日本人の精神はそのあたりで健康を失い、それぞれの表現の様式や専門領域に自己を閉じ込めてしまったのだ、と考えた。小説家が私生活に溺れ、社会全体を呑み込もうとする意志を失ったのは、権力に押し潰されることを恐れた逃亡であり、私もまたそのような日本文化の末裔として、背骨のない人型をなぞっていくのだろうと思ってきた。

 しかし、松川事件で廣津和郎が示した言葉の闘いを眺めてみると、そこには手渡されようとしたバトンがあったのだ。

 松川事件の被告全員の無罪が確定したのは昭和38年9月のことである。事件発生から14年が経っていた。

(季刊刑事弁護38号〔2004年4月刊行〕収録)


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