「誤判は司法制度の疫病であり、我々はそれを防止するために適切な対応策を講じなければならない」
カナダ連邦最高裁判所判事マイケル・モルデイヴァー
(2014年Hart事件判決[1]より)
5 2020年議会報告書
前章で紹介された検察庁による誤判原因調査報告書が刊行された翌年、2019年12月13日にトルドー首相は検事総長を兼ねるカナダ司法大臣に向けて、「より強固で包摂的で、回復力のある国を築くこと」の重要性を訴えるとともに、多くの改革課題を列挙する文書を発出した。その最優先事項として同首相は、イングランドで生まれたCCRCを念頭に、「独立した刑事事件審査委員会を設立し、誤って有罪判決を受けた可能性のある人々が、その再審請求を審査してもらうための手続を簡素化し、迅速化させる」よう求めた[2]。
2020年に刊行されたこの報告書「カナダにおける誤判(Wrongful convictions in Canada)」は議会図書館によってまとめられたものである。カナダで誤判問題にどのように取り組むべきかを示す客観的中立的な評価と今後の方向性を提言する。全体で20頁と短いものだが、カナダで発生した複数の誤判事件を手がかりに誤判原因を列挙するとともに、現行の再審請求制度を批判し、他国で導入されている刑事再審委員会(CCRC)タイプの独立した審査機関の設立を促す簡潔でわかりやすいものになっている。
⑴ 報告書の概要
本文では3つの誤判事例の経緯とそれぞれの誤判要因が紹介された。いずれも前述しているのでここでは詳細は省略する。一つ目は前述したドナルド・マーシャル・Jr事件で、被疑者が少数民族出身であったことから、人種的偏見を誤判原因とする例として挙げられた。2つ目はガイ・ポール・モラン事件で、捜査機関の視野狭窄現象が誤判原因となったケースと評された。3つ目はデビッド・ミルガード事件で、同氏は逮捕当時少年で、供述弱者と考えられこれが誤判原因となった。
それらに続く2つの章では、具体的な誤判事件ではなく誤判の責任を負う個人名が見出しに付けられた。1つは、ジョージ・ダンガーフィールドという検事で、2つ目はチャールズ・スミス氏という医師で、法律家と科学者が誤判原因となった根拠が紹介された。
⑵ 検察官倫理と同房者証言
このダンガーフィールド検事の名前が冠されたのは、同検事の検察官倫理違反が誤判原因となっていたと考えられているからである。この検事は前述したソフォノー事件やドリスケル事件に関わっていただけでなく、他にも2つの事件に関与していた。このうちソフォノー事件とドリスケル事件で公的な調査委員会が設置されたが、どちらの報告書でも誤判原因として事件を担当した同検事の検察官倫理違反が指摘されていたと本報告書も紹介する。ドリスケル事件調査委員会は、検事を含む検察庁の証拠不開示という行為が現在の専門職倫理から大きく逸脱していたことを重視している。同時に、ダンガーフィールド検事が、悪名高い“同房者証言”を多用していて、それが誤判に繋がったことも確認されている。
同房者証言とは、公判や量刑判決を待っている被告人を用いて他の被告人に不利な供述をさせるテクニックを指すが、カナダのみならず米国でも主要な誤判原因の一つとして知られている。ソフォノー事件では11人もの同房者が被告人に不利な証言をしておりその使用が顕著であった。弁護人はそれらの証人の信用性に関わる情報の開示を受けていなかった。そのため、ソフォノー事件調査委員会はその報告書で、同検事が使った「同房者証人の登場は公正な裁判を提供しようとする希望を終わらせる」とまで述べている。
⑶ 鑑定人問題
この報告書の第5章のタイトルとなったスミス医師はトロントの病院に勤務する小児病理学者であったが、法科学に関するいかなる訓練も教育も受けていなかった。にもかかわらず、1980年代から90年代にかけて40件以上もの子どもの死亡事件裁判に専門家として関与していた。スミス医師はそれら多くの乳児の自然死や事故死について、「揺さぶられっ子症候群(SBS)」[3]であるとか外傷性が認められるという証言を法廷で繰り返していたのである。その結果、無実の家族が10年以上服役したり、より軽い罪で有罪答弁を余儀なくされたり、子どもの親権を失ったりするなど多くの冤罪被害が生じていた。
この問題については、オンタリオ政府によって調査委員会が設置され、2008年に同医師の医学証言の問題を調査した報告書が公表されている[4]。調査委員会は、スミス医師が客観性・公平性が求められる専門家証人の役割を間違えており、「裁判において事実を判断しやすくする」目的のため非科学的で率直さに欠ける証言をおこない、法廷に、誤導的供述をした、と批判した。
調査委員会は専門家証人の重要性を認めつつ、誤判のリスク原因となっていると警告し、その中立性や客観性を保持するため、当事者的な立場を避けて、証人として提示する証拠が裁判体に理解しやすく合理的でバランスの取れた内容であることを求めるとした。
⑷ 新たな再審請求審査制度
報告書はまた、現行再審請求制度を検証してその課題と採るべき方向を論じる。
まず、現行の再審請求制度である司法大臣への申立てについては、大臣が内部組織である有罪事件審査部門(CCRG)や外部のアドバイザー(Special Advisor on Wrongful Conviction)からの助言に基づいて決定しているものの、新しい証拠として検討対象となる事項が限られていると指摘する。例えば、真犯人の自白、犯行現場に第三者がいたという証拠、第三者の関与を示す科学的証拠、重要な証拠の不開示の事実、証人による虚偽証言の証明、矛盾する証言の存在等である。
こうした審査手続について、報告書は、審査手続へのアクセス可能性と透明性の乏しさを指摘する。そして、実際に審査申立てをおこなう冤罪被害者に公的援助がないため、イノセンス・カナダや他の非営利団体の支援を得るしか手続へのアクセス手段がないことを指摘した。そして、これらの団体の経済的事情から、少なくとも申立てまでに2年という年月がかかっているとする。
また、多くの請求人にとって新たな事実や証拠の探索は困難で、「誤判が生じた可能性」を証明するハードルが高すぎるとの専門家の研究も紹介されている。多くの誤判原因は目撃証言の誤りや虚偽自白、弁護人の過失から生まれていることから、こうしたケースで誤判の可能性を証明することは極めて難しいとも報告書は指摘する。また、司法省内部での審査手続が不透明であり、このことが最終的な判断の中立性、信頼性を損なっていると指摘する。
請求人に関しても、少数民族、人種的少数者、女性、少年、障害者といった社会的マイノリティの誤判可能性が高いことに着目した[5]。こうしたマイノリティが虚偽の有罪答弁をする割合が高いことが指摘され、十分な弁護体制や特性に対する理解が刑事司法手続に備わっていない実情を誤判原因の一つとして言及している。
加えて報告書は、従来、冤罪事件から除外されることの多かった事実冤罪以外のケースにも焦点を当てるべきだと主張している。特に、上述の社会的マイノリティが関わる事案では、家庭内暴力に対する正当防衛事案において法的に争うことなく軽い罪で有罪答弁をするなど、量刑上の誤判事件を具体例として挙げている。
⑸ まとめ
最後の問題として報告書は、カナダには公式の誤判被害当事者に対する刑事補償制度が存在しない点を指摘する。1966年に制定され1976年に効力を発した「市民的及び政治的権利に関する国際規約」の14条6項にそうした補償の制定が義務付けられているにもかかわらず、カナダではその制定がなく、1988年にできた誤判後の補償に関する政府指針があるにとどまる。この指針では被告人が「事実上冤罪(factual innocence)」であった場合に限って賠償をすることとされており、これが雪冤者にとって高いハードルとなっている。有罪が破棄されるだけでは足りず、事実上冤罪だったという判断が裁判所から示される必要があるからだ。報告書はミルガード事件調査委員会がおこなっていた批判を紹介し、誤判を導いた重大な過誤が刑事司法機関にある場合を補償対象に含めるよう勧告している。
その上で、報告書は最終的にイングランドをはじめとして各国で導入されているCCRCと同種の独立した再審審査機関を新たにカナダに設置するよう求めた。こうした方向には研究者や雪冤運動団体などから強い支持がある一方で、導入にはその政治性やコストの高さに懸念があることを紹介しつつ、たとえそうした批判が正当であったとしても、現状に代わる(再審請求のための)仕組みを設けることは不可避だとして、カナダにも同種機関の導入を呼びかけて終えている。
注/用語解説 [ + ]
(2025年06月07日公開)