裁判員のはらの中──もうひとつの裁判員物語<br>第11回

裁判員のはらの中──もうひとつの裁判員物語
第11回

縁あって裁判員

小野 利さん

公判期日:2012年7月10日~7月12日/青森地方裁判所
起訴罪名:現住建造物等放火
インタビューアー:田口真義


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小野利(おの・かつ)さん(2025年6月5日、筆者撮影)

来いというから行く!

 私が裁判員を経験した翌年の2011年秋に、縁あって弘前大学(青森県弘前市)で開催された「裁判員裁判シンポジウム」に招かれた。それ以来、同大学には度々招かれている。

 その後、2014年に「死刑執行停止の要請書」を提出したのだが、その際に遠く青森から賛同署名の手を挙げてくれたのが小野利(おの・かつ)さんだ。しかも、職場の同僚でやはり裁判員経験者の方にも声をかけてくれて、2筆もの署名をもらうことができ、青森まで日帰りで行った甲斐があった。彼女の本業は介護施設に勤務する介護職だが、多岐にわたる側面の顔のほうが色濃い。

 小野さんは、「利園(りえん)」という雅号を持っている。これは、煎茶道の免状の証である。むろん、それだけではない。もはや趣味の領域を超えている。

 そんな多才な小野さんが裁判員を務めたのは、2012年のことだが、公私ともに多忙を極める日々ゆえだろうか、その記憶は曖昧である。しかし、あえてわからない部分はそのままに、もっと大切な部分に迫るべくお話を聴かせてもらった。なお、事実として重要な部分については、弘前大学人文社会科学部、平野潔教授に資料提供をしていただいた。

 裁判員制度ができた当時、報道で見聞きはしていたが、懐疑的に捉えていたそうだ。

 裁判官になりたかった人にとって、裁判員は疑似体験する最良の機会と言える。その時点でも、「ピンとこなかった」という小野さんだが、翌2012年の初夏に呼出状を受け取ることになる。

 勤務先は個人事業主らしいが、比較的制度初期の段階において有償での公務休暇とは素晴らしい対応だと思う。裁判員になった従業員がいたという前例があったことも大きいだろう。そして、小野さんの互助の精神は東北地方だからというわけではなさそうだ。

 「来いと言われれば行くだけ」と選任手続日の朝、小野さんは自動車で約1時間かけて青森地裁へと向かった。むろん初めての裁判所である。

広大なリンゴ畑(2025年6月6日、筆者撮影)
雄大な岩木山(2025年6月6日、筆者撮影)

驚くより残念——選任手続~初公判

 やはり、育ってきた環境だろうか、嫌かどうか以前に断るという選択肢やそういう感性そのものがないように感じる。もはや人格としての価値観と言えるだろう。その姿勢は、選任手続の際も大いに現れる。

 「当たり前に選ばれる」、この感覚は一定数の裁判員経験者から聞くことがある。いずれにしても、裁判員に選任された。朧気な記憶を振り絞って思い出してもらった結果、60代の男性3名に40代、50代の女性3名、補充裁判員が男女1名ずつというやや年齢層の高い合議体だ。そこに男性3名の裁判官を加えた全員で初日の昼食会が開かれた。

 小野さんによると、人が集まる際に食べ物を持ち寄るのは青森(東北地方)の文化だそうだ。それに、一番よく話したという女性の裁判員は、本州最北端である下北半島から来ていたそうだ。青森県といっても広い。食文化一つとってもだいぶ違うはずだ。

 事件は、祖母と同居する母子家庭の息子(当時22歳)が自宅寝室に灯油を撒き、マッチで着火し家屋を全焼させた現住建造物等放火である。隣接する小屋の一部も焼損したが、幸いにも誰もケガを負うことなく鎮火した。

 公訴事実に争いはなく量刑のみを判断する裁判だったため、選任手続日の午後から初公判の裁判は、3日後には判決公判を迎える正味2日半の期日で組まれていた。自身も息子を持つ小野さんにとって、他人事とは思えない事件の裁判が幕を開ける。

 青森地裁は立派だが、法廷によっては被告人と裁判員たちが通る通路を共有していることもあるだろう。そして、注目の冒頭陳述といきたいところだが、小野さんにとっては霞んだ記憶のようだ。

青森地方裁判所(2025年6月4日、筆者撮影)

 事案からして、現場の写真や見取り図、あるいは灯油缶やマッチなどといった証拠類があるはずだが、「記憶にございません」とのことだ。他方で、被告人質問においては、小野さん自身も積極的に手を挙げ、事件の背景といえる部分が浮かび上がってきた。

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(2025年11月14日公開)


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