深謀無遠慮 第7回

明治刑事訴訟法の下における刑事弁護

大出良知 九州大学・東京経済大学名誉教授・弁護士


1 治罪法を踏襲した明治刑訴法

 前回、わが国で初めての近代的・体系的な刑事手続の法典である治罪法における刑事弁護についての規定を簡単に紹介しました。治罪法は、フランス法の影響を受けて制定されましたが、その後、法整備には、次第にドイツ法の影響が強くなったことは周知の通りです。

 1889(明治22)年2月11日には、ドイツの影響を受けた大日本帝国憲法(旧憲法・国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787976/1)が公布され(翌年11月29日施行)、翌1890(明治23)年2月10日には、ドイツ法に倣った裁判所構成法(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787979/8)が公布され、11月1日には施行されることになりました。そのような流れを背景に、同じ11月1日には、治罪法に代わる新たな刑事訴訟法(以下、明治刑訴法といいますが、旧々刑訴法と称されたりもします。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787979/474)が制定・施行されることになりました。

 しかし、明治刑訴法は、基本的には、なお多くの点で、治罪法を踏襲しており、弁護の規定も、ほぼ同様の内容になっていました。本格的なドイツ法の影響を受けた刑事訴訟法(大正刑訴法、あるいは旧刑訴法と称されたりもします)は、1922(大正11)年5月5日になって制定され、1924(大正13)年1月1日に施行されることになります。明治刑訴法は、それまで約33年間通用していましたし、治罪法と全く一緒だったわけでもありませんから、その刑事弁護についての規定を確認しておきたいと思いますが、その前に、旧憲法と裁判所構成法の刑事訴訟法に関連する内容を簡単に確認しておきたいと思います。

2 旧憲法・裁判所構成法と刑事手続

 旧憲法は、刑事手続に関する人権に関わって、「逮捕監禁審問処罰」(23条)や「住所ニ侵入」「捜索」(25条)を禁止することにはしていました。しかし、いずれにも「法律ニ依ルニ非スシテ」あるいは「法律ニ定メタル場合ヲ除ク外」といった留保が付されていましたから、憲法による直接的保障があったわけではありませんでした。

 裁判所構成法によれば、治罪法時の裁判所の構成はあらためて変更され、区裁判所、地方裁判所、控訴院、大審院ということになりました(1条)。区裁判所は、違警罪と一定の軽罪の第一審を管轄し(16条)、地方裁判所は、区裁判所及び大審院が第一審として扱う以外の事件の第一審を管轄し、さらに区裁判所の判決に対する控訴を管轄することにしていました(27条)。また控訴院は、地裁の第一審判決に対する控訴、さらに地裁の第二審判決に対する上告を管轄することにしていました(37条)。大審院は、皇室関係の特別犯罪についての第一審且つ終審を管轄し、控訴院第二審判決に対する上告を管轄することにしていました(50条)。

3 裁判所構成法下の弁護人

 ということで、次に、そのような裁判所構成の下で弁護についてはどのように規定されていたのかを、できる限り治罪法との異同を明らかにしながら確認していきたいと思います。

 治罪法で弁護人が認められることにはなりましたが、それはまだ、起訴後の公判段階になってからのことでした。その点、明治刑訴法においても変更はありませんでした。治罪法では、違警罪から重罪までのいずれの事件の公判においてもということにされていましたが、明治刑訴法では、裁判所構成の変更に合わせて区裁判所公判から地方裁判所公判のいずれにおいてもと変更されました。しかし、実質的には治罪法と同様「被告人ハ弁論ノ為メ弁護人ヲ用ユルコトヲ得」(179条1項)としました。その担い手である「弁護人ハ裁判所所属ノ弁護士中ヨリ之ヲ選任ス可シ但裁判所ノ允許ヲ得タル時ハ弁護士ニ非サル者ト雖モ弁護人ト為スコトヲ得」(2項)ということになっていました。

 治罪法との違いということでは、治罪法では重罪事件でしか弁護人に認められていなかった「訴訟書類ヲ閲読シ且之ヲ抄写スルコト」を全事件について認めることにしたことでした(180条)。

4 明治刑訴法の刑事弁護

 ところで、明治刑訴法は、弁護の担い手を代言人ではなく、前述のように弁護士と規定することにしていました。とはいえ、弁護士法案が帝国議会に提出されたのは、明治刑訴法の施行直後であり、1893(明治26)年5月1日になって弁護士法が施行されるまでは、明治刑訴法施行直前の1890年10月18日の司法省訓令第4号をもって、訴訟中弁護士の執るべき事務は代言人に執らせることにしていました。

 それはともかく、前述の179条2項の但書は、治罪法当時と同様、代言人(弁護士)の人数に関わっていたと考えられます。その人数は、明治刑訴法施行時の明治23年末になっても1800人弱でしかありませんでした(奥平昌洪『日本辯護士史』〔有斐閣・1914年〕1363、1371−1372頁参照)。

 明治刑訴法も、地方裁判所が第一審として担当する重罪事件については、治罪法同様、原則として弁護を必要的にするとともに、官選弁護制度を採用していました。公訴状を受け取ってから24時間後という治罪法が規定していた時間的制約はなくなりましたが「開廷前裁判長又ハ受命判事ハ……一応被告人ヲ訊問シ且弁護人ヲ選任シタリヤ否ヲ問フ可シ」(237条1項)とし、「若シ弁護人ヲ選任セサルトキハ裁判長ノ職権ヲ以テ其裁判所所属ノ弁護士中ヨリ之ヲ選任ス可シ」(2項)ということにしていました。

 しかし、この点でも治罪法と同様、弁護士の人数の問題からか、「被告人及ヒ弁護士ヨリ異議ノ申立ナキトキハ弁護士一名ヲシテ被告人数名ノ弁護ヲ為サシムルコトヲ得」(3項)ということにしていました。

 但し、治罪法が規定していた弁護人がいないで弁論が行われた場合に、判決の効果を否定する規定は削除されていました。

 また上訴に関わっては、「弁護人ハ被告人ニ代リ上訴ヲ為スコトヲ得」(243条)ということになりましたが、治罪法同様、上告審において弁護士に対応を依頼することを認め(279条1項)、被告人が重罪の言渡を受けて上告している場合か、検察官から重罪に当たるとして上告されている場合に自ら弁護士を選任していないときには、上告裁判所長が「職権ヲ以テ」その裁判所所属の弁護士の中から選任することにしていました(2項)。それに加えて、控訴院において、地裁が軽罪とした判決を重罪に変更するときや重罪として控訴されたときには、地裁で重罪事件を扱うときと同様に弁護人が選任されていない場合には「裁判長ノ職権ヲ以テ弁護人ヲ選任ス可シ」ということにしていました(264条)。

 ところで、明治刑訴法においても、起訴すべきか否かを決めるために重罪事件は必要的に、軽罪事件については裁量的に予審が行われることになっていましたが、治罪法の場合と同様、その予審中に弁護人を依頼することはできませんでした。但し、勾留状または収監状によって拘束されている場合には、弁護士も「親属、故旧」と同様に「官吏ノ立会ニヨリ」接見することができることになっていました(85条)。被告人が、予審中に予審判事によって単独室に拘束され、現在の「接見禁止」と同様の状態である「密室監禁」(87条)にされている場合には、予審判事の許可がなければ他人との接見等はできないことになっていました(88条)。また、被告人の代理人として臨検、捜索、差押に立会うことができることになっていました(108条)。

 また、弁護士と弁護人は、治罪法の場合と同様、予審でも公判でも「身分、職業ノ為メ委託ヲ受ケタルニ因テ知リタル事実」について証言拒絶権を認められていました(125条・190条)。

5 大正刑訴訟制定までの改正

 以上のように、明治刑訴法の弁護についての規定は、ほぼ治罪法の規定を引き継いでいたことが分かります。それはなにも弁護に関わってだけのことではありませんでした。そのことで、前述した背景事情との関係もあり、大正刑訴法の制定までにしばしば改正が提起されることになりました。必ずしも改正が実現したわけではありませんが、その詳細は、前回も紹介した小田中聰樹『刑事訴訟法の歴史的分析』(日本評論社、1976年)の154頁を参照してもらいたいと思います。

 その中で、弁護に関わって紹介しておく必要のある改正は、1899(明治32)年3月に公布・施行された「刑事訴訟中改正法律」の中の次の2点であろうと思われます(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/788011/210)。

 1点目は、弁護人としての権限というわけではありませんが、前述した点に関わりますので触れておきたいと思います。予審中の「密室監禁(87−89条)」が廃止されることになり、それに伴い、原則として接見が禁止される場合がなくなり、例外的に「予審判事ハ必要ナリト思料シタルトキ」に「監房ヲ別異シ」他人との接見等を「禁止ス」ることができることにしました(新85条2項)。

 2点目は、それまで重罪事件の公判にだけに認められていた官選弁護を特別な場合に全審級の公判に付することができることにしました(179条ノ2)。対象は、現行法(37条)とはいくらか異なり、被告人が「十五歳未満」、「婦女ナルトキ」、「聾者又ハ唖者ナルトキ」、「精神病ニ罹リ又ハ意識不十分ナルノ疑アルトキ」、それに「被告事件ノ模様ニ因リ裁判所ニ於テ弁護人ヲ必要ナリトスルトキ」でした。但しこの場合には、被告人と弁護士の同意なしに「弁護士一名ヲシテ被告人数名ノ弁護ヲ為サシムルコトヲ得」(2項但書)としていました。

 以上のように、いくらか進展もみられましたが、まだまだ不十分であったことは間違いありません。特に公判前の弁護が法的に本格的に保障されることになるまでには、なお四半世紀を要することになりますが、次回は、それまでの大正刑訴法の下での弁護について確認しておきたいと思います。

(2020年07月22日公開)


こちらの記事もおすすめ