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第1回

映画監督・想田和弘さんと在外国民審査訴訟をめぐるストーリー

裁判という方法で声を上げる「それはゴミ拾いのようなもの」


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声を上げること/「ゴミ拾いのようなもの」

 想田さんはどうして今回、訴訟という形で声を上げようと思ったのだろうか。

 「先ほど申し上げたように、僕も以前は、世の中は黙っていても良くなっていくと思っていました」と想田さんは振り返る。

 「それが、東日本大震災のころから、そうではないと痛感するようになった。おかしいと思うことが起きても、おかしいという声が上がらない。思った以上に、民主的価値観が根付いていないのだと感じました」

 「焦りました。同時に、思えば自分自身も選挙のときに投票するだけで、政治や社会に対する参加をサボってきたことに気づきました。自分たちのことは自分たちで決める社会にしたい。それが民主主義。僕も日本の主権者として、1億分の1の責任は果たしたい、と思うようになりました」

 「社会へ参加する方法にはいろいろあります。投票すること、メディアで発言すること、論文やエッセイを書くこと、歌を歌うこと、デモを行うこと、演説をすること、ビラを配ること、FacebookやTwitterで意見を投稿すること。その中の一つの方法として、裁判を通じて参加するという道があっていい」

 「原告という形で、もっと積極的に、政治や社会に対してコミットしていく。今は在外国民審査のほかに、選択的夫婦別姓を求める訴訟も起こしています」

 声を上げ、行動することを「ゴミ拾いのようなもの」だと想田さんは表現する。

 「道に落ちているゴミを自分が拾っても劇的には変わらないから放置しても良い、誰かがやってくれるだろうという考え方もあるけれど、そこで拾うという選択肢もある。ゴミを一個拾えば、街はゴミ一個分きれいになると思いたいし、実際そうだと思います」

 「裁判もそうです。ゴミを拾っていくことで、自分も拾おうかなと思ってくれる人も出てくるかもしれない」

 実際に、在外選挙の投票権については、「ゴミを拾った人たち」によって制度が動いた。

 つい最近まで、在外日本人には選挙の投票権すら認められていなかったが、2005 年に最高裁判所で「投票権を制限するのは憲法に違反する」とする判決が出たのち、公職選挙法が改正されて、現在は国政選挙について投票できるようになった。

 「法律には不備がある。しかし国側には、不備を認めたくないという『大人の事情』がある。これらにひとつひとつ地道に抗って、『拾えるゴミ』を拾っていくしかない」と想田さんは話す。

 「僕は映画を撮るとき、できるだけ小さな世界にカメラを向けます。具体的で、小さな世界をじっくり見ていくと、そこにはより大きな世界の縮図が詰まっていて、大きな世界と相似形だったりします」

 「訴訟でも同じことが言えます。それぞれの訴訟が扱うのは小さな世界かもしれませんが、その問題提起を通じて、大きな世界の構造が明らかになりうる。今回問題にしている国民審査や夫婦別姓の議論そのものは、法律の不備に関する争いですが、それを突き詰めて考えると、海外に暮らす人に対するスタンスだったり、夫婦のあり方に対するスタンスだったり、より大きな社会の意識が透けて見えるんです」

 日本に住んでいる日本人にとっては当たり前で見えなくなっている「なんとなく」の可視化を、在外日本人の目線で今までもずっとしてきた想田さん。

 今回の訴訟で、在外日本人として自ら被っている「なんとなく」の不利益に先頭を切って抗うことを決めた。彼がゴミを拾うことは、次の「大きな社会の意識」の幕開けを告げているのかもしれない。

(2021年03月12日) CALL4より転載

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