深謀無遠慮 第8回

大正刑事訴訟法の下における刑事弁護

大出良知 九州大学・東京経済大学名誉教授・弁護士


 今回は、前回予告したように、前回(第7回)で紹介した明治刑訴法の全面改正法として1922(大正11)年5月5日になって制定され、1924(大正13)年1月1日に施行された刑事訴訟法(大正刑訴法、あるいは旧刑訴法と称されたりもします)の下での弁護について、可能な範囲で確認しておきたいと思います。大正刑訴法の条文自体は、国立国会図書館デジタルコレクションで参照することができます。

1 ドイツ法の影響を受けた大正刑訴法

 フランス法の影響の下に制定された明治刑訴法に代わって制定されることになった大正刑訴法は、ドイツ法の影響の下に制定されることになりました。1877年にドイツ帝国の下で制定された刑事訴訟法と、その改正のために用意された1908年草案と1920年草案でした。中でも1920年草案は、第一次世界大戦後の1919年に成立し、人権保障の萌芽が見られたワイマール共和国の下で起草されました。

 ということで、わが国でも明治期末から大正刑訴法制定直前までしばしば刑事手続における人権蹂躙が社会問題化しており、大正デモクラシーと言われた社会情勢も相俟って、治罪法や明治刑訴法とは異なった自由主義的・民主主義的な改革であったと評価されることにもなりました(例えば、團藤重光『刑事訴訟法綱要』〔有斐閣・1943年〕36・46頁参照)。そして、翌1923年には、陪審法が制定されました。

 その改革の具体的内容としては、強制処分についての法的規制の強化、不告不理の原則の徹底、被告人の当事者たる地位の強化と弁護制度の拡充、上告理由の拡張などが挙げられます(例えば、高田卓爾『刑事訴訟法』〔青林書院・1971年〕16頁以下参照)。

2 不十分な強制処分に対する法的規制

 明治刑訴法では、現行犯の場合以外には捜査機関に強制処分権限を与えていませんでした。そのため、被疑者の勾引、勾留、訊問等までが「承諾」があったとして行われ、人権蹂躙につながったと考えられていました。ということもあって、大正刑訴法では、検察官が捜査を行うについて強制処分を必要とする場合には、公訴提起前であっても予審判事または区裁判所判事に請求させることにしました。また、要急処分を認めてはいたもののその可能な場合を限定し、急速を要し判事に請求する余地のない場合を要件にしていました。弁護権の拡充ということでは、予審段階で弁護人選任が認められることになりました。

 ということで、立法当局は、前述のような強制処分に対する法的規制によって、人権蹂躙を防ぐことができると考えたようです。確かに、明治刑訴法と比較すれば、前進とも言えることになっていたかもしれません。しかし、要急処分の要件の認定が検察官に委ねられており、裁判官による事後抑制も規定されていませんでした。また、裁判上の捜査処分についても要件判断についての裁判官の裁量権は規定されていませんでした。弁護権の拡充という点でも、予審段階で弁護人の選任は認められましたが、肝心の被告人に対する訊問に立ち会うことは認められませんでした。それだけでなく、証人訊問への立会権も「公判ニ於テ召喚シ難シト思料スル証人」の場合にだけ認められていました(302条)。

3 弁護重視の姿勢

 そこで、弁護に関わる主要な規定について、可能な範囲で明治刑訴法との比較で確認しておきたいと思います。

 明治刑訴法の弁護についての総則的な規定は、「公判」の編の通則に「被告人ハ弁論ノ為メ弁護人ヲ用ユルコトヲ得」(179条1項)との規定をはじめ、最少限の規定が置かれただけでした。これに対して、大正刑訴法では、「第一編總則」に、「弁護及補佐」との1章を設け(第4章39-47条)、現行法と同様の編成ということになりました。そこには、一応弁護重視の姿勢を看て取ることができると言ってよいかもしれません。

 その冒頭の39条1項は、「被告人ハ公訴ノ提起アリタル後何時ニテモ弁護人ヲ選任スルコトヲ得」と規定していました。明治刑訴法では、公判段階の「弁論ノ為」に弁護人を選任することが認められていましたが、大正刑訴法では、「公訴ノ提起アリタル後」に拡張されました。ということで、起訴後に行われる予審にも弁護人を選任できるようになりましたが、「被疑者」にその権利はなお認められていません。

 また、その弁護人は、「弁護士中ヨリ之ヲ選任スベシ」(40条1項)とされ、明治刑訴法の「裁判所所属ノ」との限定は削られました。とはいえ、この時点でも弁護士の人数が充分であったわけではありませんから、明治刑訴法同様「裁判所又ハ予審判事ノ許可ヲ得タルトキハ弁護士ニ非サル者ヲ弁護人ニ選任スルコトヲ得」(2項)ということになっていました。

 さらに、後にも触れますが、必要的弁護(334条1項)や官選弁護(334条2項、335条)にあって、裁判長が職権によって弁護人を選任する場合には、「裁判所所在地ニ在ル弁護士」だけでなく「司法官試補」を選任できることにしていました(43条1項)。それから、明治刑訴法と同様「被告人ノ利害相反セサルトキハ同一ノ弁護人ヲシテ数人ノ弁護ヲ為サシムルコトヲ得」(43条2項)ともしていました。

 主な弁護人の権限についても確認しておきますと、予審から選任が認められるようになったことで、弁護人は「予審ニ於テハ弁護人ノ立会フコトヲ得ヘキ予審処分ニ関スル書類及証拠物ヲ閲覧シ且其ノ書類ヲ謄写スルコトヲ得」(44条2項)ることになっていましたが、さらに「予審中何時ニテモ必要トスル処分ヲ予審判事ニ請求スルコトヲ得」(303条2項)だけでなく、「予審判事ノ許可ヲ受ケ書類及証拠物ヲ閲覧スルコトヲ得」ということになりました(303条3項)。そして、公判が開始された後は「裁判所ニ於テ訴訟ニ関スル書類及証拠物ヲ閲覧シ且其ノ書類ヲ謄写スルコトヲ得」(44条1項)ということになっていました。証拠物の謄写は「裁判長又ハ予審判事ノ許可ヲ受ケ」て可能ということでした(44条3項)。

 明治刑訴法においては、拘束された被告人と弁護人としての接見等が認められることにはなっていませんでしたが、大正刑訴法においては、公判が開始された後には、「弁護人ト勾留ヲ受ケタル被告人トノ接見及信書ノ往復ヲ禁スルコト得ス」(45条)ということになりました。

 必要的弁護事件としては、明治刑訴法が要求した「重罪事件」にあたる「死刑又ハ無期若ハ短期一年以上ノ懲役若ハ禁錮ニ該ル事件」(334条)とされ、明治刑訴法の改正により導入された官選弁護については、「十五歳未満」とされていた被告人の年齢が拡張され「二十歳未満又ハ七十歳以上」(335条1号)とされたほか、「心神喪失者又ハ心神耗弱者タル疑アルトキ」(4号)、「其ノ他必要ト認ムルトキ」(5号)と現行法と同様の規定にされました。この規定は、言うまでもなく上訴審においても準用されることになっています(407条、433条)。

  「業務上委託ヲ受ケタル為知得タル事実ニシテ他人ノ秘密ニ関スルモノ」については明治刑訴法同様、弁護士も弁護人も証言拒否権が認められていました(187条)。さらに「業務上委託ヲ受ケタル為保管又ハ所持スル物ニシテ他人ノ秘密ニ関スルモノ」についての差押え拒否権も認められることになりました(149条)。また、明治刑訴法では、「被告人ノ代人」として弁護人にも可能であった「押収又ハ捜索ニ立会フコト」が、弁護人として可能になりました(158条)。さらに、明治刑訴法では認められなかった「鑑定ニ立会コトヲ得」(227条)ということになりました。

4 「糺問主義的検察官司法」の完成

 以上、大正刑訴法においては、一般的な評価のように、明治刑訴法に比べれば、全体として漸進的な側面を持っており、弁護についても同様であったことは間違いありません。しかし、全体的に見れば、被疑者段階にはおよそ弁護の手が及ぶことになっていなかったのはもちろん、弁護の担い手の点でもなお不充分な状態でした。そして、それは、そもそもは、弁護のみならず、大正刑訴法の全般に関わる一般的な評価自体に対する疑問ということにもなります。

 大正刑訴法の意味を、これまでも本欄で紹介してきた小田中聰樹『刑事訴訟法の歴史的分析』(日本評論社・1976年)によってあらためて確認しておきますと、以下のようなことになります。

 大正刑訴法の最大のポイントは、前述もしたように、要急事件と裁判上の捜査処分が新設され、捜査検察機関の強制捜査権限が拡大されたことです。

 それは、中心的には、捜査段階で作成された供述調書の証拠能力の大幅な容認や極めて強力な起訴便宜主義の明文化に象徴されていたと考えられます。そのような検察権限の大幅な拡大は、それまでの予審を中心とする糺問主義的な刑事手続構造で実現することは不可能であり、検察官を中心とする刑事手続の構造を生み出すことにもなったとされています。前著は、その構造を「糺問主義的検察官司法」と命名しています。

 そして、この一方の当事者である検察官の権限の強化が、予審判事の権限の弱化を伴う限りにおいて、「弾劾主義化=当事者主義化」の様相を示すことになり、時代状況とも相俟って一定の自由主義的・民主主義的改革との評価も可能になっていたと考えられるとしています。

 しかし、この「検察官を刑事手続の中核に据え公判前および公判の全手続を掌握せしめようとする治安政策的刑事手続政策は、戦時刑事手続の諸立法によって、予審廃止に至らなかった点を除くならば、ほとんど完璧に実現されていくのである。そして、その結果として出現した刑事手続構造は、被告人の人権保護的規定を制限しつつ予審判事に代えて検察官を公判前手続の完全な主宰者として措定した点において、もはや弾劾主義化=当事者主義化の様相を呈する余地は全くなく、しかもそれが主宰者の交代を要求した点でまさに『革新的』な転換を意味するものであったのである。/この意味でこれを『糺問主義的検察官司法』の一応の完成とみることができるであろう」(前著18頁)とされています。

(2021年01月21日公開)


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