裁判員のはらの中──もうひとつの裁判員物語<br>第9回

裁判員のはらの中──もうひとつの裁判員物語
第9回

コロンボの思考

大木春男さん

公判期日:2013年9月19日~10月3日/東京地方裁判所
起訴罪名:殺人未遂、強姦致傷ほか
インタビューアー:田口真義


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大木春男(おおき・はるお)さん(2025年5月7日、筆者撮影)

金の卵たる中華料理人!

 LJCC(Lay Judge Community Club)では、裁判員の経験を社会に「還元」するという講話活動もしている。その場は教育機関に限らず、自治体などからも声が掛かる。2015年秋には、目黒区(東京都)の教育委員会主催で開かれた市民講座に、メンバー数名で出前授業をしに行った。その時に、受講者として参加されていたのが、大木春男(おおき・はるお)さんだ。

 20数名の受講者の中に、候補者登録通知を受け取った人くらいはいるかもしれないと尋ねてみたら、大木さんが照れながら手を挙げた。驚きと嬉しさで、半ば強引にLJCCへ加入していただいたのをよく覚えている。

 ユーモアに溢れた物言いは大木さんが人生で身に着けてきた処世術だろうか。インタビュー時75歳の彼が、生まれ故郷の山形県から東京へやってきたのは、15歳の時である。

 「集団就職」の世代である大木さんは、東京に出てきて7年間働いた。手にした『無知の涙』は、時期的に合同出版から刊行された「金の卵たる中卒者諸君に捧ぐ」という副題のついた初出の一冊だろう。同じ年に生まれ、同じように東北地方から東京へやってきた故・永山則夫氏(連続ピストル射殺事件の被告人として死刑判決を受け、1997年に執行された。「永山基準」と呼ばれる死刑判断の基準になる判例となった)に何かしら通ずるものがあったのだろうか。そして、偶然目にした料理の道は、人生の大半を占めるキャリアとなる。

 そこで中華料理の基礎を学んだ大木さんは、なんと四川料理の父と呼ばれた大家の下で修業した。その後、東京の赤坂や築地の名店で副料理長や料理長を歴任し、数え切れないほど振った中華鍋を60歳で置いた。

 中華料理の世界から、まったく別な分野で真面目に取り組む。そんな姿勢を買われて、引き抜かれたことも納得だし、大木さんの人徳なのだろう。そんな彼の裁判員経験は、病院で死生観を実感していた頃の話だ。

目黒区社会教育講座に参加した大木春男さん(右奥から2人目)(2015年11月15日、LJCC提供)
LJCC東京交流会に初参加した大木春男さん(左から4人目奥)(2016年9月24日、LJCC提供)

糸がプッツンと——選任手続

 それまで、司法との関わりは一切なく、「関係なく生きてきたことで、余計に世間の広さがわかってなかった」と言う大木さんに、候補者登録通知が届いた。

 職場の理解ある判断に感心する。裁判員休暇はなかったが、有償休暇として処理した点も素晴らしい。消極的な態度とは裏腹に、内心では「やってみたかった」と言う大木さんにとっては、嬉しいかぎりだったはずだ。

 やってみたいという気持ちと選ばれるかもしれないという期待は、候補者控室の扉を開けた瞬間に吹き飛んだ。何度も繰り返した「プッツン」という擬態語に力が入る。

 「プッツン」と切れた糸を手繰り寄せて紡ぎ直す。投げやりな姿勢からの理事長への報告は、本当に嬉しそうだ。しかし、初めて法廷に入った時、それまでに味わったことのない感覚を覚えたそうだ。

 例えが独特だが、法廷の捉え方としてどこか共感できる。当時60代の大木さん以外は、皆30代と40代という比較的若手で構成された合議体。中でも彼と男女2名の30代裁判員の3人組は、仲が良く公判中の昼休憩時には裁判所の周辺施設を満喫していたそうだ。

 年齢差からして、違和感なく親子に見えた3人組だったと思う。そして、選任手続を終えて解散した日の午後、「キリキリ」と動き出した神経が大木さんを突き動かした。

 それまで、関係ないし知る必要もなかった裁判という世界に触れ、貪欲な知的好奇心が目覚めてしまった。その日の夜は、横になっても頭は「キリキリ」と動いていたそうだ。

当時、裁判員に配布されていた「霞が関ランチマップ」と近隣施設への入構方法

裁判長大変ですよ!——初公判

 いよいよ初公判。事件は、カメルーン共和国より日本に入国し、ビザ(査証)が切れたあとも8年以上にわたり不法残留していた被告人が、閉店後のスナックに侵入し、1人で店に居た被害者を襲い、加療約1週間を要する全身挫傷の傷害を負わせたという強姦致傷(現:不同意性交等致傷罪)だが、被告人は否認していた。

 緊張の初入廷で、大木さんの目に飛び込んできたのは、180センチメートル近い大柄な体躯の被告人で、日本語も堪能だったそうだ。冒頭陳述の様子を聴いてみよう。

 選任手続時から公判、評議に至るまで被害者は匿名での扱いだった。大木さんにとっては、今でも「A子さん」である。そして検察官は、「(刑事手続を)マニュアル通りに進めている」と感じたそうだ。被告人はおろか裁判員の理解すら置き去りにしてしまう刑事手続は、裁判員裁判の目的とは真逆だろう。

 否認事件である以上、気楽に済むはずがない。不穏な空気の中、裁判は進んでいった。

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(2025年09月12日公開)


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