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第11回船木誠一郎弁護士に聞く

弁護士は個人の側に立って叫び続けなければならない


1 本人のための最善の弁護

三浦 船木先生は、検察官を辞して弁護士登録をされるわけですが、最初から刑事弁護をやりたいとお考えでしたか。

船木 検事は7年しかやっていないのですが、弁護士登録をした当初は刑事事件をやる気はありませんでした。そんな中、たまたま美奈川成章先生(福岡県弁護士会)と一緒にやった刑事事件で刑事弁護のやりがいを感じました。

松本 美奈川先生とされたのはどのような事件でしたか。

船木 いわゆる輪姦事件。3人のうち2人の実行行為者がいて、1人が行為したのは間違いないのだけれども、もう1人、誰が性交に及んだのかということが問題になりました。被害者も含めて、車の中に合計4人いるのですが、誰が性交したのか、共謀にとどまるのかということで、まるで小説の『藪の中』の様に関係者の供述が異なる上、その供述がころころ変遷したんですよ。そんな混沌とした状況下であるにもかかわらず、美奈川先生は、決めてかからない。被告人の言うことを、まずは受け入れる。でも、丸のみにはしない。そして、決して被告人を突き放すことなく、非常に熱心に細かく対応される。それを近くで見ていて、刑事事件も捨てたものじゃないなと思いました。

三浦 大きな心境の変化ですね。

船木 検察官を辞めた理由のひとつとして犯罪者と関わりたくない、普通の人を相手にした仕事をしたいと思っていたんですよね。でも、美奈川先生と仕事をして考え方が変わりました。普通の人だからといって立派でもないという気持ちになりました。普通の人を相手にしたいなと思っていたことが不遜だったかなと。だから、「刑事事件はもういいや」「犯罪者と関わるのはもういいや」って思ってたんだけど、普通の人も、普通でない人も、別に変わりなんかなく、一緒だと思えるようになった。それは、美奈川先生のおかげです。美奈川先生は、依頼者の属性なんかまったく考えずに対応しますからね。

松本 普通の人、普通ではない人という話がでましたが、船木先生は、引き受ける事件と、引き受けない事件の線引きはありますか。

船木 たとえば、接見禁止がついている被疑者・被告人から情報を取るために、被疑者・被告人の「ボス」から弁護をやってくれと言ってきた場合のように、別の目的があからさまにありそうだなという場合は引き受けません。暴力団関係の事件に限らず、消費者関係での特定商取引法違反事件でそういったことが透けて見えるときがあります。そのときには、「私はあなたのためではなく本人のためにやります」って言いますね。それを受け入れてもらえない場合はお断りします。

松本 誰にとって最善の弁護をするかということですね。

船木 最初の段階では、本人の要望と上の立場の人の要望が一致している場合もあるかもしれませんが、後に食い違ってくる可能性がありますよね。「実は、私、嫌々ながらやらされたんですよ」と下の立場である本人が、喋ってしまう場合があるわけですよ。その場合、本人のために弁護をしていないと最善をつくせませんよね。ただ、「私は一切関係ないですから、本人のためだけにやってください」という上の立場の人の言うことを信じるかどうか。下の人の真意を確認するのが難しいですよね。裁判所も誤解していると思うのだけど、ヤクザの親分子分って擬性親子関係じゃないですか。親子関係だから、親が子どもの面倒を見る、親が子どもの弁護費を出すのは普通なわけです。

松本 そこで面倒見なきゃどうするみたいな話ですよね。

船木 大切な子どものために親として弁護士を手配するのではなくて、自分に累が及ばないようにするためにやるケースもあるから、そこの所の判断は難しいよね。

2 世論に対峙する

三浦 暴力団関係の事件の場合、有罪ありきの認定がされているのではいかと思うことがしばしばあります。

船木 暴力団対策法の施行とともに暴力団の取締りが強化されるようになって、暴力団は悪だという認識が強くなっていけばなっていくほど、その傾向が強くなってきていますよね。

三浦 世論というか、社会の空気感が先行しているのかなという感じがします。

松本 そこですよね。最終的には裁判で判断しなきゃいけないわけじゃないですか。そういう場合には、広く、納得できるような常識や物差しである「世論」を使って判断せざるをえないという側面はあるのかなとか感じることがあります。

船木 そうですね。裁判所としては結論をださないといけない。でも、結論を出すに際して躊躇する度合いが低いと思うのですよね。それは、「どうせ、悪いこと、やってるんだろ」という意識があると思う。でも結論を出すためには本来は、暴力団だからというのではなくて、やったことを裏づけるいろいろな行動の外形をもとに判断しなければならない。客観的な事実で主観的要件を判断するっていうのはそういうことだよね。あたかも客観的にやっていますという振りが横行しているんじゃないかな。もうちょっと、人の行動だとか、言動だとか、そういった周辺事実をきちんと見て客観的事実に基づく主観的要件の認定してもらいたいよね。

松本 それって、犯罪の被害者供述の信用性についても同じことが言えるのかなと思いますよね。

船木 強姦被告事件の最判平23・7・25集刑304号139頁、無罪になったのがあるでしょう。あの事件のときに、「被害者の供述が信用できないなんてありえない」って最高裁に対する批判がものすごかったよね。たしかに、性犯罪の被害者を保護すること、それは極めて大切なことですよ。ただ、それが、行き過ぎてしまうと返って危険な事態になってしまう。たとえば、「これが無罪なのはおかしい」という社会の批判という漠然とした雰囲気が醸成され独り歩きし始める。独り歩きし膨れ上がった世論に振り回されてしまう。僕の感覚としては、そんな世論によって検察官の起訴する基準が下がっていると思う。「被害者の供述の信用性に問題があるからといって、嫌疑不十分なんてできないよ」という感じ。裁判所は裁判所で、「証拠を見てみなよ」って言いたくなるような判決を書いているよね。「なんでこれが無罪なの」って新聞で叩かれて批判を浴びるのが嫌なのかな。

三浦 政策論的な考えが前面に出てしまっているのかなという感じはしますよね。

船木 もちろん、裁判には人権の砦としての役割はあるのだけど、率直に言うと治安維持機能ということも託されているわけでしょ。だから、政策的な判断っていうのはありえると思う。全面的に否定しようとは思わないけどね。だけど、僕ら弁護士は眼の前の個人を見る立場であって、社会秩序の維持のために個人が犠牲になるのを何とか防ぐのが役割なわけですよね。裁判というのも政策のひとつだからと言って諦めたら弁護士としては駄目だよね。

松本 諦めそうになるときはありますけどね。

三浦 刑事裁判で、暴力団事件や性犯罪者の被害者供述の信用性判断の背景にある世論というものに対峙せざるを得ない場合、船木先生はどのような工夫をされていますか。

船木 供述者の属性で判断しないようにしてほしいとか、供述内容自体の合理性を見てほしいとか、強く主張するようにしているけど、現実はなかなか厳しいよね。「嘘を付く理由がない」といったことで、簡単に供述の信用性が認められ、「この信用できる供述に照らすと、被告人の供述は信用できない……」なんてことはよくある。

3 裏づけは徹底的に

松本 検察官時代のご経験で法律家として学び大切にされていることはありますか。

船木 どれだけ面倒であっても、徹底的に裏づけを取っていくということを学びましたね。検察官の仕事は公訴権を持つ検察官が、裏づけを怠り、起訴に積極的な事実のみに着目したら、冤罪の危険を招く。だから、良い検察官は、消極的な事実にも目を向けながら裏づけをとっていると思う。特に、否認から自白に転じたときなんかは、自白に安心せずに、自白の裏づけをとることが重要となる。この姿勢は、弁護人でも同じだと思う。自白に転じたからといって、ほかの証拠の吟味を怠ってはいけない。

三浦 徹底的に裏づけをとるということは法律家にとって最も重要なことですね。

船木 そう。無罪を出すと検察官は減点になるって、外野からは言われたりしているけど、それは、適当な捜査やったら駄目だけど、実際は、そんなもんじゃない。逆に、弁護士がよく、「無罪を勝ち取った」って言い方をするけれど、僕はその言い方は嫌いなんだよね。無罪なんて、勝ち取るものじゃなくて転がり込むものだと思ってるから。もちろん、勝ち取る弁護士はいると思うよ。大阪の後藤貞人先生みたいに勝ち取ったとしか考えられないケースもある。でも、後藤先生ですら、「タマが良くて、スジが良くて、裁判官が良くて、運が良くて」って仰っているでしょう。

松本 裏づけが足りないというケースってそれなりにあるように思います。我々の仕事って、裏づけにどれだけ、力と感覚を注げるかにつきるのかなと、船木先生のお話を聞いていて思いました。だから、暴力団の事件や性犯罪で、証拠の裏づけというよりは、「反社会的組織ってこういうものでしょ」という常識、「男から性的被害を受けた女性はこういう対応するでしょ」という常識で有罪になっているように感じることがおおくて違和感を覚えていました。

船木 暴力団が確固たる組織として行動していると思われているじゃないですか。だけど、組織的な行動だとか、組織的な秩序になじめない人っていっぱいいるわけよ。思っているような鉄の結束でやっているわけではないのにステレオタイプに立証がされるよね。

松本 それはやっぱりレッテル貼りだと思うんですね。暴力団であれば組織総動員で口裏合わせをする、証拠の隠滅をする、ひどいときには脅す。そういうレッテル貼りで、接見禁止がずっとついているし、保釈は却下されるし、ちょっと行き過ぎだよなという感じる場面が多いです。

船木 でも、やってしまう人も実際いるからね。弁護士としては片棒を担がされないように本当に注意しないといけない。

4 貧乏くじを引く人間を少なくするために

三浦 レッテル貼りということがまかり通るようになってしまうと、結局、治安維持という公益の目的のために個を潰すことが是とされる社会になってしまうということですよね。

船木 そう。だから、そこのバランスの中で、我々弁護士は個の側に立って叫び続けなければいけないだろうと思う。それは、個が重視され過ぎてもいけないかもしれないけど。私は、職業人として死刑制度に反対なのです。社会秩序維持のために犠牲になる個が必ず生じるわけですよ。制度である以上、貧乏くじを引く人間が絶対に出てくる、本当はやっていないにもかかわらず貧乏くじを引いて刑務所に行く人もいるわけですよ。ただ、貧乏くじを引かせておいて国が人の命を奪ってはならないでしょ。僕は高邁な理想なんか持ちあわせてはいないけど、貧乏くじを引く人間をなるべく少なくすることができたらいいなと思うね。弁護士ってそういう仕事じゃないかな。

松本 我々の仕事って、悪い人を弁護するときもあるじゃないですか。その際、「弁護人はどうしてこんな主張をするんだ」という声がかなりありますよね。船木先生の仰ったように、制度のあおりを受けて貧乏くじを引く人を少なくするために、眼前の依頼者に寄り添うということは、弁護士の仕事の根本にあるのかもしれないですね。

(「この弁護士に聞く第35回」『季刊刑事弁護』105号〔2021年〕を転載)

(2022年07月22日公開) 


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