袴田事件では、袴田巖さんは再審無罪判決で雪冤を果たした。しかし、名張事件、飯塚事件、大崎事件、日野町事件などは再審請求中。全国にはいまだ多くの冤罪・再審事件があり、弁護団の努力にもかかわらず、その救済は取り残されている。各事件の最新の動きを弁護団に報告いただく。(編集部)
1 事件の概要

1961(昭和36)年3月28日、三重県名張市の「葛尾」(くずお)という村の公民館で開かれた「三奈の会」(みなのかい)の懇親会で、ぶどう酒を飲んだ女性のうち5名が死亡、12名が入院し、ぶどう酒から猛毒の農薬TEPP(テップ)が検出されるという大惨事が発生した。
死亡した5名の女性の中に妻と愛人がいた奥西勝(おくにし・まさる)さん(当時35歳)は、「三角関係の清算」という動機があるとされた。懇親会の当日、開催前にぶどう酒を「三奈の会」の会長宅から公民館まで届けたことから、公民館内で一人になった時間があり、犯行の機会があるのではないかと疑われ、警察から厳しい追及を受けた。
勝さんはこれを否定し続けていたが、事件直後から連日ジープで連行されて長時間の取調ベを受けた。自宅にも警察官が泊まり込み、就寝から排便にいたるまで監視される中、ついに虚偽の自白をしてしまった。

「妻と愛人を殺すため、公民館で一人になった隙に、自宅から用意してきた農薬・ニッカリンT(TEPPを主成分とするもの)を混入した」という内容の自白である。
勝さんは同年4月3日に逮捕され、津地方裁判所に殺人、殺人未遂の罪で起訴された。しかし、勝さんは起訴直前に自白を撤回し、以後一貫して、無実を主張し続けた。
2 第一審無罪判決
第一審では、勝さんにしか犯行の機会がないと言えるかどうかの関係で、ぶどう酒が会長宅に届けられた時間が重大な争点になった。
すなわち、勝さんが会長宅にぶどう酒を取りに行ったのが午後5時20分頃だとすると、その直前にぶどう酒が会長宅に届けられた場合は、勝さん以外の者による会長宅での犯行が否定されることになる。一方、ぶどう酒が届けられたのが午後4時以前だとすると、会長宅にぶどう酒が置かれていた時間に、勝さん以外の者による犯行の機会があることになる。
農協職員のTさんは、当日、H酒店で清酒2本とぶどう酒1本を買い、会長宅に運んだ。受け取ったのは会長の妻(事件で死亡)であった。
この運搬に関わった村人たちは、当初、ぶどう酒が会長宅に届けられたのが午後4時前と証言していたが、事件から2週間以上経ってから、ぶどう酒が会長宅に届けられたのは勝さんが来る直前であると、関係者らの供述が一斉に変更された。
しかし、この証言には次の矛盾があった。
ぶどう酒を会長宅に届けたTさんはその後、農協に戻って仕事をし、5.7キロメートル離れた広島屋に、自転車で折り詰め弁当を取りに行っている。広島屋の証言によると、Tさんが来た時刻は午後5時10分であった。この広島屋の証言を前提にすると、ぶどう酒が会長宅に届けられた時刻は午後4時前とするしかなく、午後5時20分の直前であるはずがないのである。
第一審無罪判決は、事件当初の村人の供述を採用し、村人たちの供述の変更について、「検察官の並々ならぬ努力の所産」と痛烈に批判した。
加えて勝さんの自白について詳細な検討を行ったうえで、自白の信用性を否定し、1964(昭和39)年12月23日、無罪判決が言い渡された。
3 逆転死刑判決
しかし、控訴審の名古屋高等裁判所は、逆転の死刑判決を言い渡した。
毒物が混入されていたぶどう酒瓶の栓は、次のとおり特殊な二重王冠になっている。
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(2025年09月03日公開)