裁判所内での被告人などとの遭遇と警備
田口 福岡地裁小倉支部で裁判員への声かけ事件[1]がありました。裁判所としては、そうしたことが起こらないようにするために、裁判員への配慮などはありますか。
河原 ある事件で、「被告人の関係者とエレベーターで一緒になった際に挨拶をされた、どうすればいいか」と相談を受けたことがあります。「挨拶を返しても無視しても構いません。やってはいけないのは事件の話をすることだけです」と伝えました。私は、裁判員裁判ではありませんが、私が勾留決定を下して、その後保釈された被告人と、たまたまエレベーターで2人きりになったことがあります。「その節はどうも」というやり取りは、決して居心地のいいものではありませんでしたが、こちらが悪いことをしたわけではないので、割り切るしかありません。
われわれは慣れていますが、裁判員にとっては違うでしょうね。「裁判員専用のエレベーターはないのか」とよく聞かれますが、そういうものはありませんので一般のエレベーターを利用してもらうしかありません。
田口 東京家裁で、離婚調停中の女性が配偶者に刺殺された事件[2]もありましたね。
河原 ありました。一部の裁判所では金属探知機を導入していますが、限界はあります。実は、刑事事件よりも家事事件のほうが危険な場面は多くて、家事部では、そうした事態への対応は日常茶飯事です。裁判を受ける権利は誰にでもあるので、「関係者以外お断り」とはできず、警備の面では非常に難しいところです。
田口 裁判員だった方と、後日ばったり会うことはありましたか。
河原 ないですね。ただ、これも裁判員裁判ではありませんが、元被告人と偶然会ったことはあります。マンションを借りようと相談した不動産屋で対応してくれた社員が、かつて私が執行猶予にした人でした。
民事担当の裁判官は、病院が当事者となる医療過誤事件を担当することも多いので、「病院の選択肢が限られている地方では3年もいると、行ける病院がなくなってしまい、おちおち病気にもなれない」とよく言います(笑)。転勤には、特定の土地に深く入り込みすぎないようにして、裁判官や家族の生活の平穏を守るという意味もあるように思います。
田口 転勤には、そういう理由もあるのですね。
河原 転勤する時はいつも寂しいものですが、人間関係を切り替えることができることは、ある意味、救いにもなっています。
裁判員制度の賛否
田口 裁判員制度は、参加する国民にとってデメリットのほうが大きいのでは、という見方もあります。そもそも裁判員制度ができた当時、歓迎されていましたか。
河原 歓迎というより、裁判員の方にはつらい制度だろうと感じていました。証拠写真を見たり懲役刑(現在、拘禁刑)の判断を下したり、仕事を休んで裁判に参加することの負担は大きいでしょう。
田口 実際にやってみた感想にはどういう声が多いですか。
河原 多くの方は「いい経験になった」とおっしゃいます。「こんなに他人の人生を真剣に考えたことはなかった」という言葉が印象に残っています。
田口 他人の人生に深く関わるという点では、裁判官はまさにそれが職業なわけですね。
河原 そうですね。とくに刑事は、その重みを常に感じる仕事です。やりがいはありますが、自分が正しいと思うことを言える立場である分、その責任は自分で取らなければならない重さがあります。
田口 冤罪だったら裁判所が責任を取ってくれるのか、という話は、まさにそういうことですね。
河原 自分が無実の被告人に対して有罪判決をしたことはないと信じたいですが、絶対にないとは言い切れません。神様ではありませんから。裁判は人間が行う以上、間違いが起こり得ることが前提です。
田口 私が裁判員のときの裁判長に、「法廷は、人がもっとも噓をつくところです」と言われて、みんな衝撃を受けました。証人の宣誓や偽証罪はどうなっているのかとツッコんだのを覚えています。
河原 証人は、意識的にせよ無意識にせよ噓をつく可能性があることを前提にするのが、裁判の基本です。噓か本当かを確かめようとする姿勢が求められます。「汝は事実を語れ、我は法を語らん」という古代ローマ由来とされる法格言がありますが、古今東西を問わず、事実認定の難しさ、悩みは尽きないことがわかります。
田口 最終的な立証責任は検察官にありますよね。
河原 そうです。検察官が提出した証拠を常識的に判断して合理的な疑いがない場合に有罪判決をする、という判断をします。それが真実と異なる可能性はゼロではありませんが、絶対的な真実というものはなく、証拠関係が変われば判断も変わり得る、と割り切って臨むしかありません。
田口 これまでのお話を聞いて、裁判官の給与が高い水準であることに納得できました。逆に、裁判員の日当が少ないので、裁判官の平均給与に基づいて算出するのが妥当ではないか、という意見を聞くこともあります。他方で、大学などで講演したときには、「日当1万円もらえるなら裁判員をやってもいい」と軽い動機を述べる学生もいます。
河原 動機はさておき、裁判に興味を持ってもらえるのはいいことだと思います。みんなが真面目な動機である必要はありません。
田口 法学部の学生も、最近は裁判員制度についてあまり学んでいないという話を聞きます。裁判所の情報発信も消極的な印象で、報道も少なく視聴者側の関心も薄れてきているように感じます。一方で、下した判断に対する批判を真摯に受け止めすぎて、つらい経験として抱え続けてしまう裁判員経験者もいます。
河原 どんな判断をしても、一方からの批判は避けられません。双方、あるいはそれ以外の立場から非難されることも珍しくありません。
でも、私の大学時代の恩師は「人が人を裁かないことから生ずる不正義と、人が人を裁くことから起こる不正義とを比較してみると、前者の方がはるかに大きい」「人が人を裁く制度は、そのような意味で一つの『必要悪』にほかならない」と言っています[3]。誰かがやらなければならないことだから、「あなたの判断でよかったんです」と、その裁判員経験者の方に伝えてあげてほしいです。また、世の中の犯罪や裁判がどういうものかを、1つの事件を通じて実体験することには意味があります。
裁判員裁判と刑務所見学
田口 私が裁判員をやったとき、「刑罰を決めるときは、刑務所での被告人の生活や出所後のことについては考えなくていい」と言われました。フランスやドイツでは司法に参加する候補者は刑務所見学を行うと聞く一方で、日本にはそうした仕組みがありません。多くの裁判員経験者が、刑務所を知ってから判決を出したかったと感想を述べていますし、自分たちが下す判断の先を知ることには意義があると思いますが、どうお考えですか。
河原 知ったほうがいいと思います。でも、知らないことを判断できないということを突き詰めると、人を殺したことがない者は殺人事件の裁判員にはなれないなどという極端な結論になってしまいます。私自身、少年事件を担当していた頃、関東の少年院はすべて見学しましたが、刑務所については、最高裁判所が企画してくれる刑務所視察に何回か参加しただけであり、東京拘置所には、裁判とは別の用事で一度訪れただけです。
田口 拘置所を見学したとき、未決と既決のエリア(未決は判決が確定していない被告人、既決は判決が確定した受刑者)を再現した展示がありました。未決側には差入れのお菓子が積まれ、既決側にはない。目で見て両者の違いがすぐわかる、いい見せ方だと感じました。
河原 「百聞は一見にしかず」ですね。ただ、拘置所を見学するためには時間や施設の立地が課題になりそうです。
田口 以前、被告人を拘置所から裁判所へ護送する車を使えば、追加の経費もかからず、護送車に乗ること自体も貴重な経験になるのではと考えたことがあります。
河原 あれは法務省の車両なので、活用できる可能性はあると思います。
田口 どこかで提案してみたいですね。
最後に、裁判員裁判への期待などいままでに話題に出なかったことで、一言いっておきたいことがありましたら、お話しください。
河原 雑駁な話しかできませんでしたが、「素朴な疑問」の解消にとって少しでもお役に立てばうれしいです。
田口 本日は、貴重なお話をありがとうございました。
河原 こちらこそ、ありがとうございました。
【関連記事:連載「裁判員のはらの中──もうひとつの裁判員物語」】
・第13回 裁く側と裁かれる側と(竹山由季乃さん)
・第14回 ビックリだらけの裁判員(幅美奈子さん)
・第15回 裁判員裁判における裁判員の素朴な疑問【前編】(河原俊也✕田口真義)
注/用語解説 [ + ]
(2026年09月22日公開)
