
袴田事件(1966年)の再審(やり直し裁判)で2024年9月に静岡地裁が言い渡した無罪判決をめぐり、検察が控訴を断念する際に出した畝本(うねもと)直美・検事総長(当時)の談話で犯人視され名誉を毀損されたとして、元プロボクサー袴田巖さん(90歳)が国に550万円の損害賠償と謝罪広告の掲載を求めた国家賠償請求訴訟の第4回口頭弁論が10月13日、同地裁(平山馨裁判長)で開かれた。
袴田さんの弁護団は、検察官に対し無罪判決を否定する言動を取ることを禁じる「無罪判決否定禁止ルール」を新たに打ち出し、このルールに基づいても検事総長談話は違法だとアピールした。欧米の事例を踏まえた主張で、弁護団はこのルールが正面から問われるのは国内の裁判では初めてとみている。
無罪判決を得た個人の地位を脅かすような言動は許されない
弁護団はこの日、指宿信・成城大教授(刑事訴訟法)の「法律鑑定意見書」と、それをもとに論理構成した準備書面を提出した。
指宿教授は「無罪判決否定禁止ルール」をこう定義する。
検察官は、ある人に対する訴追につき、裁判所から無罪が言い渡された後に、法廷外において、その判断について不満を示したり、判決内容に疑問があることを公表し、無罪判決を得た個人の地位を脅かすような言動を取ることは許されない——。
指宿教授の意見書が詳しく分析しているのが欧米の事例だ。①欧州では、検察官による無罪判決の否定言説は欧州人権規約が定める「法律に従って有罪とされるまでは無罪と推定される」という「無罪推定の原則」に抵触し、法的規制の対象になると解されている、②米国では各種の検察官倫理規範によって、検察官が確定した無罪を否定する言説を公にすることは基本的に禁じられている——と紹介した。
検事総長談話は「ルールを明らかに逸脱し違法」
一方、日本ではこのルールに関する議論は重ねられておらず、法的根拠を調査・検討した学術論文も見当たらないという。しかし、日本が批准する国際人権規約にも無罪推定の原則は明示されており、欧州のような解釈論を採り入れていくことは「十分に合理性があるし、裁判実務で採用することも特段困難があるとは思われない」と考察。根拠となる条文として、憲法31条(無罪推定の原則、適正手続)、39条(一事不再理)、13条(名誉回復の利益)を挙げた。
これを受けて弁護団は、無罪判決否定禁止ルールを「近代刑事司法の根底に存在する極めて重要な不文の規範」と位置づけている。
指宿教授の意見書は最後に、検事総長談話が無罪判決否定禁止ルールに違反するかどうかを検証している。
談話が再審無罪判決の確定する段階で「本判決が5点の衣類を捜査機関の捏造と断じたことには強い不満を抱かざるを得ない」「本判決は、その理由中に多くの問題を含む到底承服できないものであり、控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容」と記したことを問題視。これらは裁判所の事実認定や法的結論に対する否定に当たり、無罪判決否定禁止ルールを「明らかに逸脱した」と非難し、国賠法上、違法になると結論づけた。
「『検察の理念』を否定する自己矛盾行為」
弁護団の準備書面は加えて、このルールを裏づける証拠として、2014年に策定された「検察の理念」を取り上げた。
「理念」は冒頭部分で「常に公正誠実に、熱意を持って職務に取り組まなければならない」とうたっており、弁護団は外国法にならって「日本の検察官も確定した無罪判決を誠実に受け入れる義務を自ら宣誓している」と捉えた。また、「権限行使のあり方が、独善に陥ることなく(中略)謙虚な姿勢を保つべき」と規定していることから「検察官個人が判決の内容に不満を持っていようとも、確定した司法の最終判断に対して『謙虚に対応すること』こそが、この謙虚な姿勢そのものである」と読み解いた。
そして、検事総長談話は「自ら定めた『検察の理念』を真っ向から否定する言語道断の自己矛盾行為で、倫理的誠実義務に著しく違反する違法行為である」と糾弾した。
弁護団の準備書面は判例にも言及している。警察庁長官銃撃事件をめぐり、警視庁が公訴時効成立の当日に「オウム真理教(事件当時)の信者の犯行だった」と公表したことに対し、無罪推定の原則を踏まえて名誉毀損を認め違法と判断した2013年11月の東京高裁判決(LEX/DB25502632)だ。「(信者は)嫌疑不十分で不起訴になったうえ公訴時効が完成しており、刑事責任を追及できない事態に至っていたから、犯人性や有罪性を前提とした犯人の断定を伴う説明をすることは本来的に許されない」と判示している。
弁護団は、袴田さんの場合は「その段階をはるかに超えた司法の最終確定判断」だったと指摘。検事総長談話は「最も『本来的に許されない』職務上の義務違反である」「正当化する特段の事情は一片も存在しない」と厳しい言葉を連ねた。
弁護団「裁判所はこのルールをはっきり判断してほしい」
弁護団は訴状で、検事総長談話が名誉毀損に当たるとともに、憲法39条などを根拠とする「確定無罪判決尊重義務」に違反すると立論していた。
口頭弁論にオンラインで参加した弁護団の戸舘圭之弁護士は「確定無罪判決尊重義務が公権力全体にかかる法規範であるのに対し、今回打ち出した無罪判決否定禁止ルールはもっぱら検察官に課せられた行為規範になる」と説明した。この訴訟では、名誉毀損と併せて、尊重義務と否定禁止ルールの双方を主張していく意向を表明した。
国はこれまでの審理で「談話には『袴田さんが犯人である』との記載はなく名誉毀損に当たらない」「確定無罪判決尊重義務は法的根拠も義務の射程も不明で、違法性を基礎づける法的主張として成り立っていない」との見解を示し、請求を棄却するよう求めている。次回の口頭弁論までに無罪判決否定禁止ルールに反論する書面を提出することになった。
弁護団長の小川秀世弁護士は口頭弁論終了後に静岡市内で開いた記者会見で「無罪判決否定禁止ルールは適正手続や無罪推定といった刑事司法の基本原則から導かれ、わが国にも存在する」と強調した。
さらに、無罪が確定した人に捜査関係者が「今でも犯人だと考えている」と発言した過去の事例などに触れて、無罪判決の否定禁止が「今まで曖昧だったため無罪判決を無視する言動を招いてきた。このルールを初めて主張したので、裁判所にははっきりとした判断をしてほしい」と力を込めた。
◎著者プロフィール
小石勝朗(こいし・かつろう)
朝日新聞などの記者として24年間、各地で勤務した後、2011年からフリーライター。冤罪、憲法、原発、地域発電、子育て支援、地方自治などの社会問題を中心に幅広く取材し、雑誌やウェブに執筆している 。主な著作に『袴田事件 これでも死刑なのか』(現代人文社、2018年)、『地域エネルギー発電所──事業化の最前線』(共著、現代人文社、2013年)などがある。
【編集部からのお知らせ】

本サイトで連載している小石勝朗さんが、2024年10月20日に、『袴田事件 死刑から無罪へ——58年の苦闘に決着をつけた再審』(現代人文社)を出版した。9月26日の再審無罪判決まで審理を丁寧に追って、袴田再審の争点と結論が完全収録されている。
(2026年11月04日公開)