1 はじめに
袴田巖氏は、第一審で死刑判決を言い渡された56年後に再審無罪となった[1]。袴田事件は広く報じられ、大きな社会的関心を呼んだ。その結果、冤罪のみならず、再審制度をはじめとする刑事司法制度のさまざまな側面にも関心が向けられた。この問題に対して注目が集まること自体は当然のことであり、歓迎されるべきことでもある。しかしながら、袴田事件によってこれらの問題が初めて明らかになったかのように扱う報道が少なからず存在することには、失望を禁じ得ない。私は40年以上前から冤罪に関する研究に取り組んできたが、次のことは断言できる。この問題は決して新しいものではなく、古くから論じられてきた問題である。
私は、冤罪問題に関する研究を1983年の秋に開始した。当時、私はフルブライトの奨学金を得て東京大学に外国人研究生として在籍していたが、それ以前にハーバード・ロースクールの学生だった頃、刑事手続に関してロー・レビューに研究ノートを執筆し掲載したこともあった。ロースクール修了後は、アメリカ連邦地方裁判所と連邦最高裁判所のウォレン・バーガー長官の下で、それぞれ1年間ずつロー・クラークを務め、その間、複数の刑事事件を含む幅広い事件にかかわった。
研究生として来日した当初は、日本の司法制度の中でも民事訴訟法を中心に研究する予定であった。将来的には日本法を専門とする研究職に就くことを希望していたが、ポストの数が少なかったため、アメリカの法律事務所が欲する分野を選んだ方が安全だと考えたのであった。ところが、松尾浩也先生が指導教官となり、さらに井上正仁先生からも多大な指導を受け、その影響のもと、研究の主軸を刑事訴訟法に置くことを決意するに至った。
1983年7月、私が研究生となる直前に、免田事件に対して死刑事件で初めての再審無罪判決が言い渡された[2]。さらに、研究生として在籍した21か月の間には、財田川事件[3]と松山事件[4]という2つの死刑事件が再審無罪判決となった。さらに、島田事件についても、第4次(そして最終の)再審請求審がすでに進行中であった[5]。こうした時期的な背景と、これらの事件が社会的に大きな注目を集めていたことから、いわゆる「四大死刑冤罪事件」を主要な研究テーマにした。
その後の数年間、これらの4つの事件を中心に、死刑事件以外の冤罪事件についても広範な調査・研究を行った。これらの事件に内在する問題がきわめて広範だったこともあり、刑事司法制度の多様な側面にわたる研究が不可欠となった。
この研究プロジェクトは、最終的に、アメリカの法学雑誌に掲載された4本の長大な論文へと実を結んだ(これらの論文は、合計396頁に及ぶものとなった)[6]。もっとも、各誌の編集スケジュールの遅延やその他の要因により、実際の刊行の順序は前後した。以下、4つの論文を自然な流れに並べ替えて紹介する。
⑴ “From Japan’s Death Row to Freedom”(1 Pacific Rim Law & Policy Journal 11–103〔1992〕)
四大死刑冤罪事件の事実関係を詳細に検討するとともに、それらの事件に対する法曹三者と研究者の反応と、そこから生み出された各種の改革提案を分析した論稿である。
⑵ “‘The Door that Never Opens’?: Capital Punishment and Post-Conviction Review of Death Sentences in the United States and Japan”(19 Brooklyn Journal of International Law 367–521〔1993〕)
副題が示すとおり、日米両国における死刑制度と有罪確定後の救済手続の主要な制度を比較検討したものである。いうまでもなく、主題である “The Door that Never Opens?(開かない扉?)”という表現は、日本の再審制度が長らく「開かずの扉」と形容されてきたことに由来する。本論文では、白鳥決定[7]および財田川決定[8](そして両決定における団藤重光裁判官及び岸盛一裁判官の果たした役割)を取り上げ、従来きわめて狭く解釈されてきた再審事由が緩和されたこと、その結果として「扉」が開かれた意義について論じた。論文は次のようにいう。「財田川決定を通じて、最高裁は、[白鳥決定において示された]新たな基準への確固たるコミットメントを明確に示した。最高裁は、比較的限定的な新証拠であっても、再審開始方向に向かうには十分でありうることを明らかにした」(447頁、下線は引用者)。
さらに、四大死刑再審無罪事件その他いくつかの非死刑事件を参照しつつ、次のようにも指摘した。「最高裁が、再審規定をゆるやかに解釈すべきであるとの意図を明確に示したことから、下級審(その多くは、従前から最高裁による基準の見直しを望んでいた)も、それに従う姿勢を強く示した」(448頁)。
もっとも、この節の結びで、次のような警告的な見解を示した。
「検察側の立場に立つ者は、基準が緩和されすぎたといい、その結果、本来は非常救済手段であるべき再審が、事実上、『もうひとつの上訴審』と化してしまったと批判する。少なくとも当面は、白鳥・財田川決定に対する正面からの攻撃が、立法上も裁判上も成功する可能性は低い。しかし、だからといって、これらの基準が今後もゆるやかに解釈され続けるとは限らない。日本の裁判所は、白鳥・財田川基準を巧妙に修正してゆくかもしれない。すなわち、財田川決定後に続いた一連の再審事件を例外的事象として扱い、将来的には、再審開始決定により高度な新証拠を要求するという形で、基準を事実上厳格化していく可能性があるのではなかろうか」(460頁)。
この論文を執筆したのは1993年時点であったが、残念ながら、こうした懸念は杞憂ではなかった。その一例として、翌1994年には、袴田巖氏の第一次再審請求が、「明白な新証拠がない」として棄却された。その後、第二次再審請求がようやく認められるまでに、さらに29年を要した。
注/用語解説 [ + ]
(2026年04月01日公開)
