『完全版 袴田事件を裁いた男──無罪を確信しながら死刑判決文を書いた元エリート裁判官・熊本典道の転落』


死刑判決を執筆した元裁判官の《生きる》とは何か

 将来を嘱望されながらも意に反する死刑判決(1968年)を書かされた元裁判官の生き様を探求したルポルタージュの完結編。その裁判官は袴田事件第一審裁判で左陪席であった熊本典道元裁判官である。

 再審とのかかわりで思い出す裁判官に矢野伊吉元裁判官がいる。矢野元裁判官は、1980年代の四大死刑再審事件の一つである財田川事件で、たまたま、裁判所の書類の山の中から再審請求人の谷口繁義さんの手紙を発見。その手紙を再審請求書として受理した。矢野元裁判官は膨大な証拠の中に数々の疑問を発見し、無罪を確信した。このため、司法の不正義を正そうとして陪席裁判官と徹底的に議論を重ねた結果一度は再審決定に傾いたが、陪席の二人の裁判官に反対されそれを断念した。その後、定年をまたずに職を辞し、谷口繁義さんの再審請求の弁護人になる。熊本元裁判官とは違った意味での数奇な人生を送った。

 熊本元裁判官は、1969年に退官し、弁護士に転身する。矢野元裁判官が著した『財田川暗黒裁判』の出版は1975年。熊本元裁判官がこの書に出会っていれば、また違う人生を歩んでいたのではないかと、残念でならない。

 著者が2009年から2010年にかけてインタビューを行ない、冤罪の疑いが濃い袴田巖さんを有罪、死刑にするには合理的な疑いを覚えながら、自らの信念に背いて真逆の判決文を書いた経緯(Ⅰ接触~Ⅳ背信)に始まり、弁護士活動の陰で生じた家族の崩壊、その後の娘、息子との再会と僅かな交流、そして後半生を支えてくれた内妻との生活ぶり(Ⅴ天使、Ⅵ子供)と続く。末文に論稿を寄せた修習同期の木谷明元判事や終生「兄貴」と慕い、信じた和田久弁護士とのかかわり合いやその間の奇妙に変転していく熊本の生活が明かされていく(Ⅶ旧友)。そして、病や内妻らとのかかわりからその奇妙な生活からの回帰や晩年の袴田秀子、巖さんとの劇的な面会などの経緯が記されている(Ⅷ再生)。

 ここまでが著者が熊本を「良心の男」と紹介した前作(鉄人社、2010年)と重複している。新たに、2021年のインタビュー終了後からの4年間の出来事と(Ⅸ4年後)、さらに2023年3月の再審決定前後までの9年間の事態の変遷や関係者の思いが筆者自身の新たな分析とともに綴られる。そして、再審開始への動きに関する元裁判官の言動や動向を伴侶らから把握し、2020年11月の逝去までの元裁判官に対する著者自身の思考の再評価で締め括られている(Ⅹさらに9年後)。

 本書では、冤罪に対峙させられて二人の先輩裁判官を説得できず、加えてさらに死刑判決を執筆させられる心中が劇的に語られているわけではない。これは、著者が(前著のような)「美談にしてくれるな」という熊本の本意の理解に努める自省の邂逅記である。再会できたら「15分……泣いているしかない」と言った熊本が、その再会の時に、病床から泣きながら発する言葉の意味は懺悔か、共感か。

 なお、本書の最後に、作家の佐藤優、村山浩昭元裁判官および木谷明元裁判官による現下の検察・裁判制度の欠陥について批判的提言が添えられている。

(る)

(2023年12月26日公開) 


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