
袴田事件(1966年)の再審(やり直し裁判)で静岡地裁が言い渡した無罪判決をめぐり、検察が控訴を断念する際に出した畝本(うねもと)直美・検事総長の談話で犯人視され名誉を毀損されたとして、元プロボクサー袴田巖さん(90歳)が国を相手に起こした国家賠償請求訴訟の第2回口頭弁論が6月11日、同地裁(平山馨裁判長)で開かれた。
袴田さんの弁護団は、訴状を補強する2通の準備書面を提出。検事総長の談話が最高裁の判例に照らし「一般人の普通の注意と読み方」によっても名誉毀損に当たると主張するとともに、確定無罪判決の尊重義務違反になるとの論理を展開した。
最高裁判例の成立要件に該当するかが争点
袴田さんの再審無罪判決は2024年9月26日に静岡地裁で言い渡され、検察は10月8日に控訴断念を表明した。その際に畝本検事総長の談話を出し、「判決は、その理由中に多くの問題を含む到底承服できないもので、控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容である」と異例の受けとめを記した。袴田さんの犯行着衣とされてきた「5点の衣類」が捜査機関による捏造だったと判決が認定したことに対しても「強い不満を抱かざるを得ない」と物言いをつけた。
袴田さんの弁護団は、談話が控訴断念によって無罪が確定する袴田さんを犯人視する内容で名誉毀損に当たり、確定無罪判決の尊重義務にも違反すると立論。550万円の賠償とともに謝罪広告を最高検察庁のホームページに掲載するよう求めて、昨年9月に提訴した(提訴の内容については本サイトの記事をご覧ください)。
これに対し、被告の国は「談話には『袴田さんが犯人である』と直接指摘した文言はなく名誉毀損には当たらない」と反論し、請求を棄却するよう求めている。静岡地裁は3月の第1回口頭弁論で、1997年の最高裁判決が示した名誉毀損の成立要件に該当するかどうかが争点になるとの見解を明らかにした(第1回口頭弁論の内容は本サイトの記事をご覧ください)。
一般の人も事件の内容を詳しく認識していた
民事裁判で名誉毀損が認定されるかどうかは、争いになっている表現を「事実の摘示」(真実か虚偽かにかかわらず具体的な事柄〈事実〉を公表すること)と「意見・論評の表明」(個人の感想や評価を述べること)とに分類したうえで判断される。表現の自由にかかわる「意見・論評」よりも、証拠によって表現の真偽を確認できる「事実の摘示」のほうが成立する余地は大きい。
1997年の最高裁判決は、どちらになるかは「一般の読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべき」と説いている。その際、記された用語だけでは判別できなくても、①前後の文脈や一般読者の知識・経験を考慮し、修辞上の誇張・強調、比喩的表現方法、第三者からの伝聞内容の紹介や推論の形式の採用などによりつつ間接的・婉曲に主張していると理解される場合や、②間接的な言及がなくても、前後の文脈などの事情を総合的に考慮すると叙述の前提として黙示的に主張していると理解される場合には、「事実の摘示」に該当するとした。
静岡地裁は前回の口頭弁論で、弁護団に対し「一般の人の読み方を前提に(談話が名誉毀損に当たるという)判断過程をもう少し明らかにしてほしい」と要請しており、弁護団はこれを受けて準備書面を提出した。
弁護団はまず、袴田事件は死刑判決が再審で無罪に覆った事件で、無罪判決の確定を待たずに袴田さんが釈放された特質から「近年で最も耳目を集めた刑事事件だった」と捉え、再審も広く注目されて公判の内容が詳しく報道されていたことを重視した。
この事件に関心があった視聴者や読者は、①4人が殺害された強盗殺人放火事件で、袴田さんの犯人性が争点になっている、②弁護団は「5点の衣類」が捏造されたものだと主張した、③検察は再審でも死刑を求刑した、④事件発生から再審無罪判決まで約58年を要した——といった情報を容易に認識できたと見立て、談話が名誉毀損に当たるかどうかは「再審公判に関する報道から読者が得ていた知識を考慮して判断すべきだ」との前提に立った。
「無罪判決は破棄されるべき」と間接的・黙示的に摘示
弁護団は検事総長談話の内容を改めて分析し、「袴田さんが犯人であると明示はしていないが、一般人の注意と読み方を基準とすれば袴田さんが犯人であるとの事実を摘示したものだ」との主張を展開した。
最初に取り上げたのは「再審開始を決定した(2023年の)東京高裁決定には重大な事実誤認があると考えた」との談話の記述だ。弁護団はこれを「『無罪を言い渡すべき新たな証拠があると認める』とした(高裁の)判断が誤りで、袴田さんを『有罪と認め死刑に処する』とした確定判決の正当性は揺らがず、再審を開始する理由はなかったということを意味する」と解釈。談話は確定した死刑判決を当然の前提としており、「間接的または黙示的に『4人を殺害し放火した犯人は袴田さんである』という事実を摘示したものだ」との見方を示した。
再審公判に臨んだ際の検察のスタンスとして、談話が「改めて関係証拠を精査した結果、袴田さんが犯人であることの立証は可能であるとの判断の下、有罪立証を行うこととした」と説明したのに対しては、「まさに『袴田さんが4人を殺害し放火した犯人である』と主張することに他ならず、その旨の事実を摘示するものだ」と非難した。
また、再審の判決で「5点の衣類の捏造」を認定されたことに談話が「強い不満」を表明し「控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容」と明記したことをめぐっては、「5点の衣類は犯人性に関する重要な証拠で、捏造でなければ袴田さんが犯人であることの強力な裏付けになった」と前置きしたうえで、犯人性に争いがある事件での無罪判決に対する姿勢としては「被告人が有罪、すなわち犯人であるとしていることに他ならない」と言い切った。
弁護団は「控訴すべき」とのくだりを「間接的または黙示的に『4人を殺害し放火した犯人は袴田さん』だから無罪判決には事実誤認があり破棄されるべき内容である」という論旨だと読み解き、「その旨の事実を摘示したものと理解する以外にない」と断じた。
YouTubeの動画へのコメントを証拠として提出
そのうえで弁護団は「検事総長談話を最も端的に要約すれば『4人を殺害し放火した犯人は袴田さんであるが控訴しない』ということに尽きる」と総括した。談話全体を通じても「無罪判決を尊重するとか無罪判決に従うという趣旨は全く読み取れない」と問題視し、国が「検察が袴田さんを犯人視しているとは読み取れない」と主張しているのに対抗した。
弁護団は談話に対する「一般人の反応」として、YouTube(ユーチューブ)にアップされた動画への視聴者コメントと各地の弁護士会の声明を証拠として提出した。
準備書面では、静岡の民放テレビ局とインターネットテレビ局による検事総長談話をテーマにした動画への視聴者コメントを引き、「ほとんどのコメントが談話は袴田さんを犯人である旨を指摘していると認識し、それを前提に談話を批判している」との受けとめを記した。そして「まさに一般の読者の普通の注意と読み方とを基準にすると、談話は袴田さんが犯人であるとの事実を摘示していることの表れである」と結論づけた。
超法規的に「控訴を猶予」という判断をした
弁護団はさらに、控訴しない理由として談話が「袴田さんが相当な長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことにも思いを致し、その状況が継続することは相当ではないとの判断に至った」と綴っていることに対し、「法と証拠のみに基づいて控訴の要否を判断すべき検察官の権限を超えるもので、超法規的に『控訴を猶予する』という判断をした」と考察した。
これは「犯人は袴田さんだから控訴すべきだが、これ以上時間をかけるのは忍びないので控訴しない」ことを意図しており、「『お情けで控訴しない』と言っているとしか理解できない」と訴状の表現を再掲して、この部分も「袴田さんの名誉を毀損する」と訴えた。
国は「談話の公表により社会一般から袴田さんが犯人視されているといった実害は確認されていない」と反論しているが、弁護団は「やっぱり疑わしいんだね」といったYouTubeの動画へのコメントにも触れて「袴田さんの社会的評価を低下させ名誉感情を侵害するという実害も認められる」と力を込めた。
国家機関には無罪確定者を犯人視してはならない義務
弁護団はもう1通の準備書面で「確定無罪判決尊重義務」の法的な枠組みをまとめた。国はこの義務に対し「法的根拠も義務の射程も不明で、違法性を基礎づける法的主張として成り立っていない」と反論している。
弁護団は、この義務の発生要件について「有罪判決の確定により刑の執行という国家の強制力が発生するのと同様に、無罪判決の確定により、国家機関がその人物を犯人として扱うことを禁じる法的拘束力がただちに発生する」と定義した。
法的根拠として、①憲法39条(一事不再理、二重の危険の禁止)が国家から二度と犯罪者として扱われない地位を保障している、②刑事訴訟法が規定する再審制度は無辜の救済を目的としており、無罪が確定した以上、国家には過去の誤判による烙印を払拭する責務がある、③国際人権規約がうたう無罪推定原則が無罪判決の確定により昇華するので、国家機関がこれに反する言動をすれば近代刑事司法の根幹を揺るがす——と列挙した。
これらは憲法99条(公務員の憲法尊重擁護義務)によって検察官を含むすべての公務員に及び、義務の内容の中核は「無罪確定者を犯人視してはならない」ことと位置づけた。そして、検事総長談話は「この明確な不作為義務に真っ向から違反する」と糾弾した。
一方の袴田さんにはこの義務の裏返しとして、憲法13条(人格権)に基づく「無罪確定者として国家機関から再び犯人視される不安や恐怖を抱くことなく、平穏な社会生活を営む権利」が保障されていると立論。「長年の誤った身柄拘束と死刑の恐怖から解放された袴田さんにとって、何よりも保護されるべき核心的利益だ」とアピールした。
弁護団「国は論理的に反論できないのではないか」
口頭弁論で平山裁判長は国に対し、今回弁護団が提出した準備書面に反論するよう求め、国は順次、書面を提出することになった。弁護団は今後、確定無罪判決尊重義務に関する海外の類似事例をテーマに、刑事法学者の意見書を提出する意向を明かした。
口頭弁論の終了後、弁護団は静岡市内で記者会見を開いた。
加藤英典弁護士は「この事件は注目を集め、一般の方は詳しい報道に触れて内容をかなり理解しており、検事総長談話もそれを踏まえて作成された。『5点の衣類を捏造と判断されたことには強い不満がある』とは袴田事件の証拠構造からすると袴田さんを犯人視していることになるし、『控訴すべき』とは控訴審で有罪を主張するのだから犯人であることを前提にしている」と説明。「談話は袴田さんが犯人と明示してはいないが、最高裁判例が言う一般人の普通の注意と読み方によれば『黙示的主張』に当たる」と強調した。
戸舘圭之弁護士は「国を代表する機関である検察のトップが、袴田さんが真犯人だと思っているかの如き言動をしたことに問題がある。確定無罪判決尊重義務はきわめて要件が明確で、違反があった場合の損害も明確だ」と力説した。
弁護団長の小川秀世弁護士は「『控訴すべき』というくだりについては、国は論理的に反論できないのではないか。これで審理が終結してもおかしくないくらいの議論になっている」と自信を覗かせた。
◎著者プロフィール
小石勝朗(こいし・かつろう)
朝日新聞などの記者として24年間、各地で勤務した後、2011年からフリーライター。冤罪、憲法、原発、地域発電、子育て支援、地方自治などの社会問題を中心に幅広く取材し、雑誌やウェブに執筆している 。主な著作に『袴田事件 これでも死刑なのか』(現代人文社、2018年)、『地域エネルギー発電所──事業化の最前線』(共著、現代人文社、2013年)などがある。
【編集部からのお知らせ】

本サイトで連載している小石勝朗さんが、2024年10月20日に、『袴田事件 死刑から無罪へ——58年の苦闘に決着をつけた再審』(現代人文社)を出版した。9月26日の再審無罪判決まで審理を丁寧に追って、袴田再審の争点と結論が完全収録されている。
(2026年06月23日公開)