
袴田事件(1966年)の再審(やり直し裁判)で静岡地裁が言い渡した無罪判決をめぐり、検察が控訴を断念する際に出した畝本(うねもと)直美・検事総長の談話で犯人視され名誉を毀損されたとして、元プロボクサー袴田巖さん(90歳)が国を相手に起こした国家賠償請求訴訟の第1回口頭弁論が3月26日、同地裁で開かれた。
国は答弁書で「談話には『袴田さんが犯人である』と直接指摘した文言はなく名誉毀損には当たらない」と主張し、請求を棄却するよう求めた。これに対し袴田さんの弁護団は「談話は袴田さんが犯人であると言ったのと変わらない」と反論。平山馨裁判長は、最高裁の判例が示した名誉毀損の成立要件に該当するかどうかが争点になるとの見解を明らかにした。
550万円の賠償と謝罪広告を求め提訴
袴田さんの再審無罪判決は2024年9月26日に静岡地裁で言い渡され、検察は10月8日に控訴断念を表明した。その際に畝本検事総長の談話を出し、「判決は、その理由中に多くの問題を含む到底承服できないもので、控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容である」と異例の受けとめを記した。袴田さんの犯行着衣とされてきた「5点の衣類」が捜査機関による捏造だったと判決が認定したことに対しても「強い不満を抱かざるを得ない」と言い放った。
控訴断念を決めた理由として、再審請求審が約42年にも及び再審を始めるかどうかの裁判所の決定も割れたので「袴田さんが、結果として相当な長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことにも思いを致し、熟慮を重ねた結果」と説明。再審判決が言及した検事による供述調書の捏造などに詫びや反省の言葉はなかった。
袴田さんの弁護団は談話を撤回するよう要求したが、検察は応じなかった。このため弁護団は、談話が控訴断念によって無罪が確定する袴田さんを犯人視する内容で名誉毀損に当たり、確定無罪判決の尊重義務にも違反すると立論。550万円の賠償とともに謝罪広告を最高検察庁のホームページに掲載するよう求めて、昨年9月に提訴していた(提訴の内容については本サイトの拙稿をご覧ください)。
国は「袴田さんを犯人視する記載はない」
国は3月16日付で提出した答弁書で、談話に袴田さんを犯人視する直接的な記載がないことや、再審無罪判決に対する検察の意見・評価の表明であることを繰り返し述べ、名誉毀損には当たらないと主張した。
答弁書はまず、検察は国民の理解と信頼を得るために「個別の事案に応じて必要かつ相当な範囲で適時、対外説明(広報活動)を行っている」と前置きし、袴田事件は社会的に大きく注目されていたうえ、再審の手続に長期間を要し、控訴しない理由にも通常の事案とは異なる要素が含まれるといった「特殊な事情があることに鑑み、不控訴の方針について公表するとともに、その理由・経緯についても対外的に必要かつ相当な範囲で丁寧に説明したものにすぎない」と談話を位置づけた。
「一般的にされている『検察の主張が受け容れられなかったことは誠に遺憾だが、判決を尊重し控訴しない』との対外説明を敷衍して述べたものにすぎず、実質において違いはない」とも記している。
談話の内容については「不控訴という判断をした経緯や理由を説明するため、その前提として再審判決の理由中の一部の判示に対する検察の意見・評価に言及したもので、もとより『袴田さんが犯人である』といった記載をしていない」「そのように受けとめられることのないように留意した表現を用いている」と強調し、「袴田さんを犯人視するものでも、そのような意図で述べたものでもない」と言い切った。
弁護団の主張に対して「論理の飛躍がある」「一部の文言のみを切り取って評価している」と批判を織り交ぜている。
「検察の意見・評価を述べた」と繰り返す
談話に「控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容」と書いたことをめぐっては「証拠上、再審判決の理由中に上級審の判断を仰ぐべきと考える『内容』がある旨の検察の意見または評価を述べた」と説明した。
「有罪であるべきとか無罪が誤りというように(無罪という)結論そのものを直接評価する表現を用いておらず、再審判決の理由中の内容に問題があることを繰り返し表現している」との論理を展開。「『控訴して』というのは『上級審の判断を仰ぐ』際の手続過程を端的に表現しているだけ」と釈明した。
控訴しない理由を述べたくだりに関しては「具体的な証拠関係に基づいて判決内容を分析・検討したものではない」と断ったうえで「袴田さんが相当の長期間にわたり刑事手続の中で置かれてきた状況が今後も継続することの是非を検討し、それらを踏まえて控訴しないと判断した理由を述べたもので『お情けで控訴しない』との趣旨を述べたものではない」と弁護団の主張に反発した。
さらに「談話は再審判決をした裁判所に向けられたもの」と指摘し、「公表により社会一般から袴田さんが犯人視されているといった実害は確認されていない」と名誉毀損が成立する余地を否定した。弁護団が請求の理由に挙げた確定無罪判決の尊重義務違反に対しては「法的根拠も義務の射程も不明」と認めなかった。
弁護団「検察は控訴しない理由について噓をついた」
口頭弁論では袴田さんの弁護団長の小川秀世弁護士(再審の主任弁護人)が意見陳述し、国の答弁書に反論した。
国が「談話では袴田さんが犯人とは一言も言っていないので名誉毀損になるはずがない」と主張したとして、「無罪判決に対して控訴すべきだということは、誰がどのように考えても袴田さんが犯人であると考えていることを意味する」と強調し、「名誉毀損が成立しないはずがない」と力を込めた。
また、国が「談話は検察が控訴しなかった理由を説明したにすぎない」と釈明したことに対しては「袴田さんが長期間、不安定な地位に置かれ続けてきたから、あたかも親切で優しい検察官が控訴をしないことにしたというのは、とんでもない噓の説明」と怒りをにじませた。そもそも一家4人が殺害された重大な事件で「控訴すべき事件を控訴しないで良いなどという判断が許されるはずがない」と検察の論理を問題視し、「国の主張は全く理解できない」と断じた。
談話が出された背景について「無罪判決が出され世界中の人たちが袴田さんは無実と考えている状況の中では、検察はどうしても控訴できなかった。それを口に出せないため、控訴しなかった理由について噓をついた」と推察。「自分たちが間違っていたことを認め、謝罪して(裁判を)終わらせるべきだった」と検察の対応を咎め、袴田さんに謝罪したうえで、この訴訟の請求を認諾するよう求めた。
最高裁判例の基準に該当するかが争点に
平山裁判長は口頭弁論で、1997年の最高裁判決(LEX/DB28021760)が認定した名誉毀損の成立要件に検事総長談話が該当するかどうかが争点になると、今後の審理の方向を整理した。
最高裁判決は名誉毀損の対象となる表現を「事実を摘示するもの」と「意見・論評を表明するもの」の2類型に分け、事実摘示型では摘示された事実の重要部分が、意見・論評型では前提としている事実の重要部分が、それぞれ真実だと証明された場合には「違法性がない」と述べている。前提とする事実への主観の表明である意見・論評型よりも、証拠で表現の真偽を確認できる事実摘示型のほうが名誉毀損の成立する余地は大きいとされる。
最高裁判決は、両類型の区別は「一般の読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すべき」と提示したうえで、「間接的・婉曲」「黙示的」に主張したと理解できる場合は事実摘示型に当たると判定している。
弁護団は、検事総長談話を一般読者の読み方を基準に解釈すると「無罪判決は誤判だから控訴すべきものである」となり、それは「『袴田さんは犯人であり有罪だ』という事実を間接的または黙示的に摘示したもので、その事実に真実性や真実相当性は認められないから名誉毀損が成立する」と立論。これに対し、国は「談話は判決への検察の意見・評価の表明で、袴田さんが犯人であるとの事実を摘示したものではない」と反論している。
平山裁判長は、現段階では弁護団と国の「それぞれが自分の読み方で(談話を)読んでおり、主張が嚙み合っていない」との認識を示した。そのうえで弁護団に対し「『控訴しない』(という談話)が『犯人である』と解釈できるのか、一般の人の読み方を前提に判断過程をもう少し明らかにしてほしい」と要請した。弁護団は国の答弁書への反論と併せて、次回の口頭弁論までに書面を提出する。
国は答弁書の前半で事件の経緯を詳細に綴ったが、裁判長は「くだくだと書いているが、これまでの経緯は必ずしも重要度が高くない」と明言した。

弁護団「速やかに審理を終結させ良い判決を」
口頭弁論の終了後、弁護団は地裁隣の静岡県弁護士会館で記者会見をした。
小川氏は「『談話では犯人と直接言っていないから名誉毀損に該当しない』というのが国の反論の柱で、裁判所はこちらになぜ該当するかの説明を求めた。争点がはっきりしたので、なるべく速やかに審理を終結させ良い判決をもらいたい」と感想を話した。
笹森学弁護士は、国が談話を検察の広報活動の一環と位置づけたことについて「談話は袴田さんに向けたものではなく名誉毀損をするような趣旨ではないと強調するために、そう言っている」と解説。他の弁護士からは談話に対し「支離滅裂な内容」「検察は全く反省していないことが表れている」と改めて非難が相次いだ。
袴田さんの姉・秀子さん(93歳)もオンラインで会見に参加し、「巖だけ助かればいい問題ではない。冤罪で苦しんでいる方、支援を求めている方は大勢いる。頑張っていく」と語った。
袴田さんはこの訴訟のほかに、違法捜査や誤判の責任を問い国と静岡県に約6億840万円の賠償を求める国賠訴訟も起こしており、弁護団は2件の裁判の内容と経過を紹介するホームページを「CALL4」のサイトに開設した。同じページで裁判にかかる費用への寄付も受け付けている。
◎著者プロフィール
小石勝朗(こいし・かつろう)
朝日新聞などの記者として24年間、各地で勤務した後、2011年からフリーライター。冤罪、憲法、原発、地域発電、子育て支援、地方自治などの社会問題を中心に幅広く取材し、雑誌やウェブに執筆している 。主な著作に『袴田事件 これでも死刑なのか』(現代人文社、2018年)、『地域エネルギー発電所──事業化の最前線』(共著、現代人文社、2013年)などがある。
【編集部からのお知らせ】

本サイトで連載している小石勝朗さんが、2024年10月20日に、『袴田事件 死刑から無罪へ——58年の苦闘に決着をつけた再審』(現代人文社)を出版した。9月26日の再審無罪判決まで審理を丁寧に追って、袴田再審の争点と結論が完全収録されている。
(2026年04月11日公開)