〈袴田事件〉「検事総長の控訴断念談話で名誉を棄損された」/袴田巖さんが慰謝料と謝罪広告を求め提訴

小石勝朗 ライター


提訴後に記者会見をする弁護団の小川秀世団長(右から2人目)ら=2025年9月11 日、静岡市葵区、撮影/小石勝朗

 袴田事件(1966年)の再審(やり直し裁判)で静岡地裁が言い渡した無罪判決をめぐり、検察が控訴を断念する際に出した畝本(うねもと)直美・検事総長の談話によって名誉を棄損されたとして、元プロボクサー袴田巖さん(89歳)が9月11日、国を相手に国家賠償請求訴訟を同地裁に起こした。検事総長の談話は控訴断念によって無罪が確定する袴田さんを犯人視する内容で、確定無罪判決の尊重義務にも違反すると立論。550万円の賠償とともに、謝罪広告を最高検察庁のホームページに掲載するよう求めている。

無罪判決には「到底承服できない」と記載

 静岡地裁が再審で袴田さんに無罪を言い渡したのは昨年9月26日だった。検察は10月8日、東京高裁に「控訴しない」とする畝本検事総長の談話を出したが、その中に「判決は、その理由中に多くの問題を含む到底承服できないもので、控訴して上級審の判断を仰ぐべき内容である」と異例の見解を記した。

 とくに、袴田さんの犯行着衣とされてきた「5点の衣類」に付着した血痕の色合いをめぐり、静岡地裁が「1年以上味噌漬けした場合、赤みを失って黒褐色化する」と判断して無罪の拠り所にしたことについて「大きな疑念を抱かざるを得ない」と反論。5点の衣類は捜査機関による捏造だったと判決が認定したことに対しても、①具体的な証拠や根拠が示されていない、②客観的に明らかな時系列や証拠関係とは明白に矛盾する内容も含まれている、③推論の過程に論理則・経験則に反する部分が多々ある──として「強い不満を抱かざるを得ない」と言い放った。

 控訴断念を決めたのは、再審請求審が約42年にも及び再審を始めるかどうかの裁判所の決定も割れたので「袴田さんが、結果として相当な長期間にわたり法的地位が不安定な状況に置かれてきたことにも思いを致し、熟慮を重ねた結果」と説明。「検察が控訴し、その状況が継続することは相当ではないとの判断に至った」と結論づけた。再審無罪判決が言及した検事による供述調書の捏造などに詫びや反省の言葉はなかった。

 袴田さんの再審弁護団は強く抗議するとともに談話の撤回を求めたが、検察は対応せず、今回の提訴時点でも談話は最高検のホームページに掲載されていた。

「無罪を言い渡された者を犯人呼ばわり」と非難

 訴状は、検事総長談話が袴田さんの名誉を棄損したと強調している。

 談話が再審無罪判決には承服できず控訴すべき内容だと明言したことに対し、「『無罪判決は間違っているから控訴審で破棄させ、4人を殺した犯人は袴田さんであると認定させるべきだ』との意味を明確にした」と批判し、「無罪を言い渡された者を犯人呼ばわりすることが名誉棄損にあたることに議論の余地はない」と断じた。控訴断念の理由についても「『お情けで控訴しない』というものとしか理解できない」と切り捨てた。

 さらに、①事件の犯人が袴田さんだと言うなら検察が立証すべきだが、再審公判で立証は失敗し控訴も断念したのだから、談話の内容に「真実性」はない、②控訴断念の談話に「犯人は袴田さんである」と付け加える「必要性」は全く認められない、③控訴断念を表明する際の談話として公正とは言えないうえ、無罪判決を覆せない腹いせに袴田さんに八つ当たりしたとしか評価できず、公表の「相当性」は一片も認められない──と分析し、談話が免責される余地を否定した。

 無罪確定後の昨年11月に静岡地検の検事正が袴田さん宅を訪ねて謝罪した際、「袴田さんを犯人視することはない」と釈明しているが、「談話について謝罪したのではない」と一蹴。同12月に最高検が公表した事件の検証結果報告書に「検察は袴田さんを犯人視していない」と付言したことをめぐっても、その理由を明示していないうえ「報告書の要点は談話に沿ったもの」として、いずれも「談話の違法性に影響を与えるものではない」と言い切った。

「刑事裁判制度を冒瀆する行為」とも

 訴状は「無罪判決確定後、国家機関はこれを尊重すべき義務を負う」との前提に立ったうえで、とくに再審無罪のケースでは官報と新聞への判決の公示を義務づける(刑事訴訟法453条)など、かつての有罪判決で着せられた汚名をそそぐために積極的な名誉回復措置が求められていると指摘した。にもかかわらず、検事総長談話は「無罪判決の確定という国家による雪冤の宣明を否定し、刑事裁判制度を冒瀆する行為」と強い言葉で咎め、「確定無罪判決尊重義務に違反し到底許されない」と糾弾した。

 そして、事件発生後に身柄を拘束されて以来、58年余にわたって「艱難辛苦に耐えて無罪判決を得た袴田さんについて、社会一般に対し、『無罪は確定したが、なお犯人である』と繰り返し公言したもので、袴田さんの名誉を激しく棄損し、名誉回復や社会復帰を著しく阻害した」と重ねて談話を問題視。最高検の長である検事総長は「名誉棄損行為になることを承知のうえで談話を公表した」との受けとめを示し、精神的苦痛への慰謝料500万円に弁護士費用を加えた計550万円の賠償を求めた。

 加えて、検事総長談話が最高検のホームページに掲載され全国に流布されたことに相当する名誉回復の措置が必要だと訴え、謝罪広告を同ホームページに1年間掲載するよう求めている。内容として、談話が袴田さんの名誉を著しく棄損したと認めたうえで、取り消して詫びる文面を示した。

弁護団は「非常に怒りを覚えて起こした訴訟」

 弁護団は提訴後、静岡市内で記者会見を開いた。

 弁護団長に就いた小川秀世弁護士(再審の主任弁護人)は「無罪が確定するタイミングで『有罪立証できる』と公に明らかにすることは法律家として許されないし、無罪判決を出した裁判所への侮辱・冒瀆に当たる。非常に怒りを覚えて起こした訴訟だ」と語気を強めた。

 小川氏は「再審で無罪判決が出たのに検察が『犯人じゃないか』と公言した例はないと思う。訴訟を通じて袴田事件への捜査機関の対応がひどいものだと改めて認識してもらい、検察の再度の検証につながることにも期待している」と提訴の意義を説明。笹森学弁護士は「国がどんな論法で反論してくるか注目している」と語った。

 今回の訴訟の弁護団は、再審弁護団のメンバーのうち9人で構成している。10月上旬には、事件に関わった捜査機関や裁判所の違法を問う国家賠償請求訴訟を静岡地裁に起こす予定だ。原告の袴田さんは、冤罪で死刑判決を受けたうえ47年以上も身柄を拘束されたため精神障害の一種である「拘禁反応」を患ったままで、成年後見人の弁護士が法定代理人として手続きに当たっている。

◎著者プロフィール
小石勝朗(こいし・かつろう) 
 朝日新聞などの記者として24年間、各地で勤務した後、2011年からフリーライター。冤罪、憲法、原発、地域発電、子育て支援、地方自治などの社会問題を中心に幅広く取材し、雑誌やウェブに執筆している 。主な著作に『袴田事件 これでも死刑なのか』(現代人文社、2018年)、『地域エネルギー発電所──事業化の最前線』(共著、現代人文社、2013年)などがある。


【編集部からのお知らせ】

 本サイトで連載している小石勝朗さんが、2024年10月20日に、『袴田事件 死刑から無罪へ——58年の苦闘に決着をつけた再審』(現代人文社)を出版した。9月26日の再審無罪判決まで審理を丁寧に追って、袴田再審の争点と結論が完全収録されている。

(2025年09月17日公開)


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