冤罪が人々の人生に残した「傷跡」を追う
「どうか私の大事な夫を助けてください。命だけは助けてください」
これは、大川原化工機元顧問の相嶋静夫さんの妻が、藁にもすがる思いで拘置所長に宛てて書いた手紙である。がんと診断されたにもかかわらず、再三の保釈請求が却下された相嶋さんは、絶望の淵で、「これでも人間なのかねえ」と涙を流したという。 妻の必死の訴えは届かなかった。2021年2月7日、相嶋さんは入院先の病院で亡くなった。
「相嶋さんのことはどうしてくれるんだ」
2021年7月30日、東京地検が公訴を取り消し、大川原化工機の役員らの無実が明らかになったとき、社長の大川原正明さんはそう呻いた。大川原さんは、相嶋さんと過ごした時間は妻と過ごした時間よりも長かったとしみじみと振り返る。会社をともに支えてきた仲間の無実が明らかになっても、その命だけは戻らない。
2020年3月、大川原化工機社長の大川原さん、取締役(当時)の島田順司さん、顧問(当時)の相嶋さんが、同社が製造する噴霧乾燥機の輸出をめぐる外為法違反の被疑事実で逮捕・起訴された。2021年7月、検察は公訴を取り消した。その後の国賠訴訟では、警察官が「まあ、捏造ですね」と証言するなど、違法捜査の実態が次々と明らかになった。
本書は、大川原化工機事件の全体像を辿りながら、被害者らの声を丹念に拾い上げたルポルタージュである。本書の読みどころは、違法捜査によって冤罪が生み出された過程を追うだけでなく、その過程でどれだけの人が巻き込まれ、何が奪われ、壊されていったか、そして、その理不尽に彼らがどのように立ち向かっていったかを、丁寧な取材によって克明に描き出している点にある。
第1章から第5章までは、逮捕された役員らやその家族、従業員ら、弁護士、学者らへの取材を通じて、違法捜査の実態を明らかにしつつ、事件に巻き込まれていった人々の声を届ける。第6章、第7章では、国賠訴訟の法廷での証言を具体的に再現しながら、従業員・弁護士らの闘いと勝利を描く。第8章から第10章では、他の事件の例も挙げながら、警察、検察、裁判所の責任を問いかける。
著者の粟野仁雄氏は、共同通信記者を経て、2001年からフリージャーナリストとして幅広い分野で綿密な現場取材を重ねてきた。著書に『検察に、殺される』(2010年、ベスト新書)、『ルポ原発難民』(2011年、潮出版社)、『袴田巖と世界一の姉』(2024年、花伝社)などがある。本書にも、事件の構造を追うと同時に、そこに生きる人々の生の声に耳を傾ける著者の姿勢が表れている。
同じく大川原化工機事件を扱った遠藤浩二『追跡 公安捜査』(2025年、朝日新聞出版)、石原大史『冤罪の深層──追跡・大川原化工機事件』(2025年、幻冬舎)と読み比べると、公安警察の組織的な問題を追い、違法捜査の実態を証拠と証言から検証する2冊に対して、本書が強く印象づけるのは、冤罪が人々の人生に残した被害、すなわち「傷跡」である。
公訴の取消しと国賠訴訟での勝訴によって、大川原化工機と役員らの名誉は一定程度回復された。しかし、大川原さんと島田さんが約11か月にわたって勾留された時間も、その間に受けた身体的・精神的苦痛も、取り戻すことはできない。繰り返し取調べを受けた従業員への業務や精神面への影響に加え、売上げの減少など、企業が被った損害も残る。そして何より、相嶋さんは帰ってこない。
冤罪は、無実が明らかになれば終わりではない。失われた命や時間は決して回復せず、「傷跡」として人々の人生に影を落とし続ける。誤った捜査はなぜ止められなかったのか、逮捕、起訴、勾留を行う判断は適切だったのか、勾留されている人の生命と健康を守る仕組みは正しく機能しているのか。本書は、事件を決して「終わったこと」として片付けることなく、同じ悲劇を二度と起こさないためには何が必要なのか、その問いを読者に突きつけている。
(中)
(2026年10月21日公開)