
「最高裁のちゃんとした調査官が上告趣意書をしっかり読んでくれれば棄却されなかったのでは」
7月15日朝、東京拘置所の面会室でアクリル板越しに流暢な日本語を話すのはギリシャ人の父とアフリカ系の母をもつ米国育ちのクリストファー・スティーブン・ペインさん(34歳)。
性犯罪の被告人として無実を訴え、すでに4年近く収監されている。「副作用が起きるとかで頭痛薬もくれず頭が痛い」。片頭痛の持病や鼻血、消灯がないための不眠などに悩むペインさんのため弁護団(竹田真・主任弁護人)は医師の意見書をつけて何度も保釈請求したが、「証拠隠滅のおそれ」「逃亡のおそれ」を理由として却下される。「検察には僕を拘束するための証拠なんかあるはずない」と怒るペインさんは7月24日、千葉拘置所に移送された。「千葉の拘置所はゴキブリやスズメバチがいて大変、まだこっちのほうがまし」と嘆いた。
昨年12月11日、東京高裁の家令和典裁判長は「DNA鑑定に疑義がある」としてペインさんへの千葉地裁(水上周裁判長)の有罪判決(懲役8年)を破棄し、同地裁に差し戻した(LEX/DB25640234)。この判決に対して、竹田弁護士は「山田鑑定への疑義から千葉地裁の有罪判決を破棄したのなら、東京高裁は無罪判決を出すべきだ」とする趣意書を出して上告していたが、最高裁第一小法廷(宮川美津子裁判長)は2026年6月20日、棄却した。
事件から3年4か月後の逮捕
2018年7月12日0時10分頃、千葉県市川市で帰宅途中の若い女性が何者かに襲われ口淫された。女性は精液を吐き出し、うがいをして警察に届けた。2020年2月、ペインさんは酔い潰れて他人の家の玄関で寝てしまい、住居侵入罪で現行犯逮捕された。すぐ釈放されたが、そのとき口腔内細胞を任意提出していた。
千葉県警科学捜査研究所は「女性の口から採取したDNA型と矛盾しない」としたため、事件から3年4か月も経った2021年11月25日、ペインさんは突然、逮捕され、翌月に強制性交等致傷罪(現在は「不同意性交等致傷罪」)で起訴された。「DNA鑑定が性犯罪の決め手となることは知っている。性犯罪をしていたら、任意で口腔内細胞を提出するはずがない」と話している。
一審では国選弁護人の求めで千葉地裁は職権で神奈川歯科大学(横須賀市)の山田良広教授にDNAの再鑑定を依頼した。同教授は、「被告人と犯人のDNA型は矛盾しない、一致すると仮定した場合の確率(出現頻度)は、約17兆人に1人」と断言した。2024年7月、水上裁判長はこれを根拠に懲役8年の有罪判決(LEX/DB25620827)を下した。
事件当時、渋谷のスポーツバーで働いていたペインさんは、事件直後の時間帯に当時の交際相手に「Miss you so much(すごく会いたい)」とのメッセージを送信していた。しかし、同裁判長は「犯行直後に交際相手にメッセージを送信することもあり得る」と、証拠もなく認定した。
一審の公判前に国選弁護人からDNA鑑定書を入手した「イノセンス・プロジェクト・ジャパン」(IPJ・石塚章夫理事長)は、最初のDNA鑑定と再鑑定の試料は微量なうえ、犯人と被害者の混合試料でもあり、犯人のDNA型を特定できないと考えていた。
「有罪判決が取り消されたのになぜ」
今年3月、米国インディアナ州に住む母親のロンダ・テリル・ペインさんが妹とともに来日した。東京拘置所での息子との面会後、ロンダさんは離日する3月6日に日本外国特派員協会で弁護団とともに会見した。
「2021年11月、クリスの友人からの連絡で逮捕を知りました。感謝祭の頃でした。(中略)息子を助けてください」「有罪判決が取り消されたのに、なぜ息子は拘束されているのですか? アメリカでは有罪が証明されるまで無罪です」などと涙声で訴えた。
一緒に会見した半田孝太さん(60歳)は、米国留学中の愛娘がロンダさん一家に世話になり、クリスさんは恋人だった。渋谷からのメール送信の相手は半田さんの娘である。「クリスさんは、事件当時はまだ娘と付き合っていた。人格者の彼が性犯罪などするはずがない」と訴えた。半田さんは50人の弁護士に掛け合ったが「DNAで一致したなら無罪獲得は無理」と弁護を断られた。
「IPJに掛け合うとDNA(鑑定)に詳しい佐藤博史弁護士(足利事件の雪冤で有名)が『鑑定は疑わしい』と再検証に入ってくれた」と英語で振り返った。

角替清美弁護士は記者会見で「鑑定人のY教授(山田氏)が、試料になかったDNAの型を書き加え、逆に被害者でもクリスさんの由来でもないDNAの型を削除していた」と、EPGのグラフを使って英語で説明した。EPG(エレクトロフェログラム・電気泳動の解析図)とは、DNA型鑑定やタンパク質や化学物質などの分析で、試料の成分の分離・検出結果を時間や移動度を横軸に、検出強度(ピーク)を縦軸にとって表すグラフ。ゲノム上の特定の箇所の長さをピークとして表示し、本数や高さで個人の識別や親子関係などを分析する。
しかし、鑑定試料は真犯人の精液と女性の唾液などが混じった混合試料で、女性はすぐに口をゆすいだので試料としては不完全だった。
昨年2月に鑑定の生データとオリジナルのEPGが開示され、弁護団の角替弁護士が、サンフランシスコのDNA鑑定の第一人者、サイモン・フォード氏にそれを送り、生データから作ってもらったEPGと照合した。
フォード氏は、山田教授がペインさんのDNAを複数「加筆」する一方で、ペインさんのDNAと異なる第三者のDNA型を削除し、真犯人とペインさんのDNA型が一致するようにデータ改ざんしたと結論付けた。この検証結果と、藤田法科学研究所(徳島県)の藤田義彦氏(元、徳島文理大学薬学部教授)の「いずれも加筆されている」との意見書が東京高裁に出されていた。
家令裁判長は、「DNA鑑定のEPG(前述)の生データを解析したところ、4つの座位で山田鑑定とは異なる結果となった(一つは山田鑑定では検出されなかった型が検出され、他の三つでは山田鑑定で検出された型の一部が検出されなかった)」と認定。「付着物には、被告人のDNAとも被害者のDNAとも異なるDNAが含まれており、山田は型として判定されなければならないものを、合理的な理由もなく削除したということができるようにも思われる」と疑義を認めた。
「試料が少なく、アレルドロップアウト(両親由来の遺伝子の一つが欠落し、誤判定の原因になること)が生じた可能性も否定できないから、被害者と被告人のDNAの混合資料と見て矛盾しないとする余地も認められる」と、断定は避けたが山田氏による「加筆」を示唆した。
「答えを知って試験を受けるようなもの」
棄却された上告趣意書は、山田氏の改ざんを以下のように説明している。①なかったペインさん由来のデータを加筆、②ペインさん由来ではなかったデータを削除、③電気泳動を31回試行したが、鑑定書には採用した4回分だけ記載し、他は隠蔽。
趣意書は「山田鑑定はクリスさんと整合する方向のピークは採用し、そうでないピークは削除している。さらに白紙の状態で客観的に検証したのではなく、クリスさんのDNAをあらかじめ知り、整合する方向へ手作業で修正した」とする。
千葉地裁で証人出廷した山田教授は竹田弁護士に「被害者ともう1名の2名のDNAが混在していたとして、ある座位で被害者の型しか出なかった場合、もう一人の人が重なったのか、出ていないと見るのか?」と問われると、「同じ型と判断し、検出されていないとは考えない」「そこだけ出ていないなら不都合がありますので、他の座位が比較的きれいに二人分として出ていて一か所だけ被害者しか出ていないとなれば、そこも出ていて重なっていると判断します」と証言した。
何が「不都合」なのだろうか。弁護団は「被告人のDNAをあらかじめ認識していたバイアスの産物」としている。角替弁護士は「山田氏は最初にクリスさんのDNA鑑定を行い、クリスさんのDNA型を知っていた。答えを知って試験を受けるようなものです」と指摘した。
「スケールを変えて捏造している」
実は、山田教授は袴田事件での再審請求審で検察側推薦の専門家として、みそタンクから見つかったとされた「5点の衣類」の血痕と袴田巖さんのDNAの鑑定をし、鑑定結果が袴田さんと不一致とする鑑定書を出した。しかし法廷では「自信がない」と逃げてしまった。
袴田事件のDNA鑑定で「袴田巖さんと一致しない」と結論していた本田克也・筑波大学名誉教授は「生データを分析したわけではない」との前提で「会見で公表されたグラフを見ると山田氏はエレクトロフェログラムのRFU(縦の目盛り)のスケールを変更して、解析ソフトが判定した真のバンドを隠蔽し、偽のバンドを読ませるように意図的に工作している。解析ソフトでは自動解析したバンドを鑑定人の判断で判定し直すことはできるように作られている。あらかじめクリスさんのDNAを持っていれば絶対に捏造になる。答えがわかっているわけですから捏造を恣意的にも行うことができてしまう。証拠資料とともに対照資料を持っていれば捏造は容易です」と話す。
要はカーナビやスマホのマップが広範囲を表示するとき、詳細表示で出ていた地名や施設名が消えるような仕組みを利用したということか。しかし何のために。
刑事事件での鑑定の在り方が根底から問われるが、IPJ事務局長の笹倉香奈・甲南大学教授は「原(生)データを見て鑑定しなければならないという点は、日本の刑事手続では徹底されてこなかった。IPJにも創設時からかかわってくださる元京都府警科捜研の平岡義博さん(立命館大学特任教授)が言うように科捜研を『科学者の組織』として、警察から独立すべきです」と話す。
疑惑は尽きない山田教授だが筆者の取材依頼に「鑑定に問題はなかった。裁判中なので取材は受けられません」としている。
◎著者プロフィール
粟野仁雄(あわの・まさお)
1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部卒。共同通信記者を経て現職。著書に『サハリンに残されて』(三一書房)、『瓦礫の中の群像 阪神大震災』(東京経済)、『アスベスト禍』(集英社新書)、『「この人、痴漢!」と言われたら』(中公新書ラクレ)、『検察に殺される』(ベスト新書)、『ルポ 原発難民』(潮出版社)など多数。近著に『袴田巖と世界一の姉——冤罪・袴田事件をめぐる人びとの願い』(花伝社)、『狙われたトップメーカー——冤罪・大川原化工機事件の傷跡』(同社)。神戸市在住。
(2026年09月02日公開)