
化学機械メーカー・大川原化工機(横浜市)の冤罪事件をめぐり、起訴後の勾留中に胃がんを患って死亡した同社元顧問・相嶋静夫さん(当時72歳)の遺族が、保釈請求の却下や逮捕状・勾留状の発付にかかわった裁判官37人の判断は違法だったとして、国を相手に計1億6,882万7,223円の損害賠償を求める国家賠償請求訴訟を4月6日、東京地裁に起こした。
相嶋さんは胃がんと診断された後も「罪証隠滅と逃亡のおそれ」を理由に勾留が続き、起訴後の保釈請求は計7回却下された。遺族と弁護団は自白しないと身体拘束が長引く「人質司法」だと非難しており、裁判官の責任を問うことで司法による人権侵害に終止符を打つことを目指している。
ようやく出た保釈の許可が検察の準抗告で覆る
相嶋さんが外国為替及び外国貿易法(外為法)違反の疑いで同社の社長、常務(当時)とともに警視庁公安部に逮捕されたのは、2020年3月だった。生物兵器の製造に転用可能な噴霧乾燥器を経済産業相の許可を得ずに中国と韓国に輸出したとされたが、違法性を否認し無罪を主張した。
勾留は同月末の起訴後も継続し、保釈請求をするたびに検察が「口裏合せによる罪証隠滅のおそれがあり不相当」と反対したため東京地裁の裁判官に却下され、いずれへの準抗告も認められなかった。10月初めに胃がんと診断された後は、勾留が一時的に停止され外部の病院への入院などはできたものの、保釈請求の却下は続いた。12月の7回目の請求ではいったん保釈を許可する決定が出たのに、検察の準抗告によって覆っている。
相嶋さんは2021年2月に勾留中の被告の立場のまま死亡して公訴棄却になり、社長と常務は初公判直前の同年7月末に検察の申立てにより起訴が取り消された。
その後、相嶋さんの遺族は社長、常務とともに警察と検察の責任を問う国賠訴訟を起こし、逮捕や起訴は違法だったとして国と東京都に賠償を命じる判決が確定している。
「人質司法」による運用が原因と主張
今回の国賠訴訟の原告は、相嶋さんの妻(77歳)、長男(52歳)、次男(49歳)の3人。相嶋さんは無実で「本来なら家族と共に穏やかな生活を送っていたはずなのに、突如として長期間の身体拘束を受け、自由を奪われたまま適切な治療を受ける機会を失い、死亡するに至った」と訴え、「こうした結果を招いた直接の要因は身体拘束を継続した裁判所の判断にある」と「人質司法」による運用が原因だと主張している。
裁判官の責任をめぐり、訴状には「法令解釈と事実関係を精査することなく、罪証隠滅や逃亡のおそれを安易に肯定し、重大な疾病に罹患し死期が迫る状況にあっても保釈や勾留取消をしなかった」と記した。身体拘束の判断にかかわった裁判官は37人に及ぶことから「刑事司法に内在する構造的・組織的な問題を示す」と提起した。
それなのに「裁判官らは判断の過程・原因について十分な検証をしていない。再発防止は期待し得ない」と厳しい目を向け、国に対し「37人の裁判官それぞれが、いかなる具体的根拠に基づいて判断に至ったのか」を明らかにするよう求めている。
逮捕時点で証拠隠滅や逃亡のおそれはなかった
訴状は、相嶋さんの逮捕から死亡に至る過程を、①最初の逮捕時点、②最初の勾留決定以降、③弁護人が予定主張記載書面を提出し主張する内容を明らかにして以降、④体調が悪化し胃がんと診断されて以降——の4段階に分け、それぞれ裁判官の判断の違法性を論じている。
逮捕時点では、同社の噴霧乾燥器が規制対象に当たるかどうか経産省の省令解釈やその根拠を確認することもないまま、裁判官が逮捕状を発付したことを俎上に載せた。また、捜査開始から約1年半が経っており、逮捕された3人をはじめ同社社員らが延べ291回の任意聴取に応じるなど証拠は集まっていたと強調。相嶋さんはその間、証拠隠滅を図ったり口裏合せをしたりしたことはなく、安定した生活基盤を捨てて「逃亡する具体的な根拠は皆無だった」と言い切った。
そもそも「身体拘束の必要性が極めて低い事例だった」と位置づけたうえで、裁判官は「逮捕状が請求された時点で『明らかに逮捕の必要がないこと』を認識し得た」と見立て、「逮捕状の発付は合理的理由を欠く」と主張した。
勾留の段階では、とくに相嶋さんに捜査機関の法令解釈に反論する機会を与えなかった点を疑問視した。
争点になった噴霧乾燥器の殺菌性能について、相嶋さんには十分な知見があり、捜査機関の解釈の不合理性を裏づける資料も存在していたので、反論の機会を設けていれば「殺菌性能を肯定するに足りる十分な根拠がないことを容易に認識し得た」と指摘。裁判官が「こうした事実の取調べを怠り、捜査機関の解釈に依拠して『罪を犯したと疑うに足りる相当な理由』があると判断したのは合理的理由を欠く」と立論した。
胃がんと診断された後の勾留は「非人道的な取扱い」
胃がんの兆候が出た後の勾留に対しては「非人道的な取扱いに当たり違憲・違法」と強く非難している。
「重篤な疾病に罹患し、速やかな精査・治療を要する状態にあったのみならず、余命が限られた状況であったにもかかわらず、裁判官はこれらの事情を十分に考慮することなく身体拘束の継続を許容した。その結果、相嶋さんは回復不能な身体的・精神的苦痛を被るとともに、晩年を尊厳のある形で過ごす機会を奪われた」と咎め、憲法13条や自由権規約に違反するとアピールした。
公判を担当する予定だった裁判官が、胃がんと診断された後の打合せで「本件は長期間勾留したまま審理するのが相当な事案とは言えず、可能であれば保釈する方向で検討すべき事案だと考えている」と発言していたことも取り上げている。
当時、相嶋さんは「治療に専念することが不可欠な状態に置かれ、自らの生命健康を害する危険を冒してまで、従業員らに働きかけて罪証を隠滅する客観的な可能性はなかった」と分析。逃亡のおそれも「治療を受けられずに死に直結するのだから現実的に不可能だった」と強く否定した。
勾留の執行は停止されたものの、期限が決められていて手術や継続的な化学療法、緩和ケアなどの計画が立てられないため受入れに難色を示す医療機関が多く、検査や治療の内容が制限されたという。
そして、体調が悪化して以降は「勾留理由の程度と比較して相嶋さんの生命に対する危険が著しく大きく、勾留を取り消し、または保釈をすべきことは明白だった。にもかかわらず、再検討をすることなく漫然と身体拘束を継続した判断は、裁判官として通常尽くすべき注意義務を著しく怠ったと言うべきだ」と断じた。
最高裁判例の「射程外」と唱える
最高裁は1982年の判決(LEX/DB27000099)で、裁判官の職務について国家賠償法上の違法性を判断する要件として「違法または不当な目的をもって裁判をしたなど、裁判官が付与された権限の趣旨に明らかに背いてこれを行使したと認め得るような特別の事情があることを必要とする」と判示しており、責任を認定させるハードルは相当高いとされる。
これに対し弁護団は、逮捕や勾留、保釈に関する処分は「当事者間の権利義務関係について裁判所が紛争を裁断する『争訟』の性質を持つものではない」との前提に立ち、「争訟の裁判」の違法性を判断した最高裁判決の「射程外」だと唱えた。
逮捕や勾留、保釈の運用実態としても、①捜査機関による請求と資料に基づいてなされ口頭弁論や証拠調べなどの対審構造を欠いている、②身体拘束の根拠となる捜査資料の開示といった十分な手続保障がなされていない、③最高裁が前提としている上訴審での是正は、制度の構造上も「人質司法」の運用が常態化している面からも期待できない——と問題点を列挙し、「弁護人が反論する機会は全く保障されていない」と強調した。
訴状では同時に、国賠法は公務員の違法行為による賠償責任を認定する要件を「故意または過失」と定めているのに、「不当な目的」=悪意に限定する解釈は「法文に明らかに反する」うえ、その立証も「事実上不可能」で、「裁判官の行為について国賠法の適用を排除するに等しい」と最高裁判決への批判も展開している。
妻は「保釈請求を却下し続けた理由を聞きたい」
原告と弁護団は提訴後、東京・霞が関で記者会見を開き、訴訟の動機や狙いを説明した。
相嶋さんの妻は「連行されてから11カ月後にやっと自宅に帰ってくると、夫は遺骨になっていた。保釈請求の却下が続いた時には、夫は絶望の中で『これでも人間なのかね』とつぶやいていた。死に至る病にかかっている人間に対し、保釈却下を続けた理由を聞きたい」と裁判に臨む気持ちを吐露した。
次男は「裁判所は捜査機関の暴走を止める最後の砦のはずなのに、杜撰な捜査と恣意的な法律解釈に対するチェック機能は働かなかった。具体的な理由を示さないまま保釈を認めず、人の命と尊厳に対する配慮もなかった。二度と同じ悲劇を繰り返さないためにも、父の死に至る過程における裁判所の責任を明らかにしたい」と力を込めた。
長男も「何の法令にどのように違反して逮捕状が出たのか、そこから疑問だらけだ。(勝訴判決が確定した)国賠訴訟では逮捕状や勾留状の請求は違法とされており、そのまま通した裁判官には説明する義務や責任がある。これまで裁判所だけが何もしておらず、この訴訟で引き出したい」と語った。
弁護団長の高野隆弁護士は「罪を争う人は証拠を隠滅する蓋然性が高いと決めつけられ身柄の拘束が続く『人質司法』が、この国の司法には蔓延している。その運用の結果が今回の悲惨な出来事を招いた」との受けとめを示したうえで、「最高裁の判例によれば提訴は無謀かもしれないが、裁判官が単純に判断や法律解釈を誤った事件ではない。どこを見ても説明は不十分だし、罪証隠滅の解釈を根本的に間違っている。裁判官の職責に明らかに反することが繰り返されており、最高裁が言う『特別の事情』に該当する」と主張した。
◎著者プロフィール
小石勝朗(こいし・かつろう)
朝日新聞などの記者として24年間、各地で勤務した後、2011年からフリーライター。冤罪、憲法、原発、地域発電、子育て支援、地方自治などの社会問題を中心に幅広く取材し、雑誌やウェブに執筆している 。主な著作に『袴田事件 これでも死刑なのか』(現代人文社、2018年)、『地域エネルギー発電所──事業化の最前線』(共著、現代人文社、2013年)などがある。
【編集部からのお知らせ】

本サイトで連載している小石勝朗さんが、2024年10月20日に、『袴田事件 死刑から無罪へ——58年の苦闘に決着をつけた再審』(現代人文社)を出版した。9月26日の再審無罪判決まで審理を丁寧に追って、袴田再審の争点と結論が完全収録されている。
(2026年04月24日公開)