6月9日、刑事法研究者の小田中聰樹先生が逝去


葬儀で弔辞を読む川崎英明・関西学院大学名誉教授(2023年6月13日、仙台市の斎苑にて)

 刑事法の研究者で東北大学などで教鞭をとった小田中聰樹(おだなか・としき)先生が、6月9日、敗血症のため逝去された。享年87歳。その葬儀が、6月13日、午後1時より、仙台市内の斎場でしめやかに営まれた。

 1935(昭和10)年7月20日に岩手県盛岡市で生まれる。1954年に岩手県立盛岡第一高等学校、1958年に東京大学経済学部経済学科を卒業。1961年に東京大学法学部に学士入学し、1962年に東京大学大学院社会科学研究科修士課程に入学するとともに司法試験に合格。1964年、同大学院を修了(法学修士)して司法修習生となる。司法修習修了後、東京都立大学(1966年〜1976年)、東北大学法学部(1976年〜1999年)、専修大学法学部(1999年〜2006年)などで教鞭をとった。

 先生の刑事法学に関する研究業績や著書については、広渡清吾ほか編『民主主義法学・刑事法学の展望〔小田中聰樹先生古稀記念論文集〕下巻』(日本評論社、2005年)554頁以下を参照されたい。

 また、研究活動とともに、さまざまな社会活動を行っていたが、特に布川事件については、通常審の段階から冤罪であると見抜いて支援活動を続けた。しかし、1978年最高裁で有罪が確定した。桜井昌司、杉山卓男さんが再審で無罪を獲得するのは、2011年である。布川事件の経過や冤罪原因については、『冤罪はこうして作られる』(講談社現代新書、1993年)第5章で詳しく触れている。

 葬儀では、僧侶による読経のあと、川崎英明・関西学院大学名誉教授と福島至・龍谷大学名誉教授が弔辞を読み上げた。その全文を以下に掲載する。


【川崎英明・関西学院大学名誉教授の弔辞】

 小田中聰樹先生

 先生の訃報をご長女の千鶴さんが伝えて下さったとき、覚悟はしていたはずなのに、涙があふれ出て、とどめることができませんでした。この夏には、先生の米寿のお祝いをしたいと思っていたのに、残念でなりません。

 先生との最初の出会いは、先生の刑法学会賞受賞論文「大正刑事訴訟法の歴史的意義」を通してでした。私が大学院修士課程に入学した1973年のことでした。この論文は、権力の治安政策的刑事手続政策と民衆の人権保護要求運動との矛盾・葛藤・対抗の中に大正刑事訴訟法の制定過程を実証的かつ理論的に分析し、大正刑事訴訟法の歴史的性格についての通説的理解を覆した画期的論文でした。糺問主義的検察官司法という概念が刑事訴訟法の歴史的性格を規定する概念として刑事訴訟法学に共有されるようになったのは、先生の理論的功績にほかなりません。しかし、当時の私には、先生の論文の意義が理解できていませんでした。とはいえ、私の若い頃の論文を読み返すと、先生の分析手法に強く影響されていることを感じます。

 先生と直接に接する機会を得たのは、1976年、先生が大阪市立大学の大学院の集中講義に来られたときでした。その時、先生は、刊行予定の御著書『現代刑事訴訟法論』の草稿を手元に置いて、刑事訴訟法学と刑事司法の現状と課題、その展望を鮮やかに示してみせて下さいました。先生が御著書『刑事訴訟法の歴史的分析』の中で提示されていた「社会科学としての刑事訴訟法学」、つまり「刑事手続の法現象の論理分析、イデオロギー分析、歴史的分析、現状分析」からなる小田中刑事訴訟法学の姿が目の前に浮かび出てくる、そういう刺激的講義でした。4、5日間、朝から夕方まで、議論をはさみながらの講義でしたが、充実感と達成感で心地よさだけが残りました。あの時にまで時間を巻き戻し、若かりし先生ともう一度熱い議論をかわしたい、そんな思いが湧き出てきます。

 小田中聰樹先生

 先生が東北大学を退官された1999年3月までの5年間、法学部で同僚として過ごすことができた私は、つくづく幸せ者だったと思います。

 あれは1992年の12月のことだったでしょうか。箱根の強羅で開催される再審制度研究会の合宿研究会に向かう箱根登山鉄道の中でした。車内でたまたま一緒になった先生から、突然、「東北大学に来るつもりはありませんか」と問いかけられました。尊敬する先生からの、予想もしていなかったお誘いに、私の頭は一瞬真っ白になりましたが、「はい、私でよければ」という返事が口から自然に流れ出ていました。

 東北大学法学部で先生の同僚として過ごした時期は、刑事司法が大きく変動を始める時期でした。少年法改正や盗聴立法、破防法の適用、法曹養成制度改革などの動きが次々と登場しました。寺西判事補の懲戒問題もありましたし、日産サニー事件など再審の裁判実務にも逆流状況が生まれました。先生は人権と民主主義の擁護の立場から、これらの動きに鋭い批判の論陣を張られました。法学者もたびたび批判の「声明」を出しましたが、先生はこの法学者運動を先頭に立って牽引されました。そういう先生の姿勢、いわば小田中スピリットは、先生の謦咳に接した刑事訴訟法研究者や、先生が理事長を務められた民科法律部会の法学研究者たちにしっかりと受け継がれています。

 あれは、法学部教授会の後、夜遅く、雪道を国分町方面へと歩きながら、盗聴立法批判の特集を法律時報誌に掲載しようと相談していた時だったでしょうか。先生は、「川崎さん、権力にたてつくのは愉快だね」とおっしゃいました。にこやかに、さわやかに、そうおっしゃったのです。そのときの先生の笑顔と情景が、まざまざと脳裏に浮かんできます。

 いま、刑事司法はその枠組み自体が変動し始めています。改革と反改革の諸相は単純ではなく、この変動を正しい方向に牽引できるか否かが問われています。だからこそ、先生にはもう少し長く、人権と民主主義の法理論と法実践を導いていただきかったのです。先生はロマン・ロランの「万人のために万人に抗する」という言葉をよく援用されました。「万人のために」、孤立を恐れず、正しいことを正しいと主張する、そういう先生に、もう少しの間、私たちの進むべき道を照らしていただきたかったのです。

 小田中聰樹先生

 先生のそういう「気概」と生きざまに触れることができた学生たちも幸せ者ですね。先生の専門ゼミや大学院のゼミ、東北大学の自主ゼミの裁判制度研究会などで、先生の謦咳に接した学生たちです。先生の物静かに語る一言一言に、励まされ、襟を正し、研究や人生の指針を得た者は多いのです。先生の教えを受けた者は、学生たちに限らず、みんなそうなのです。そして、みんな「仕事の歌」を歌えるようになるのですよね。

 先生、まだまだ語りたいことがあります。でも、残る話は、いずれ私がそちらに行ったときまで、とっておきましょう。その折には、圭子夫人にも加わっていただいて、「仕事の歌」を一緒に歌いましょう。

 小田中聰樹先生

 万感の思いをもって、お別れいたします。

 本当にありがとうございました。ゆっくりとお休みください。

2023年6月13日
川﨑 英明


【福島至・龍谷大学名誉教授の弔辞】

 小田中聰樹先生のご逝去を悼み、謹んでお別れの言葉を捧げます。

 先生の突然の訃報に接し、いまでも信じられない思いです。先月一一日に、團藤重光先生に関するお見せしたいテレビ番組があり、ご自宅にお邪魔させていただきました。録画していた番組を見終わった後、先生はにわかに歌を歌おうとおっしゃられました。そこで、小田中ゼミ定番の「仕事の歌」と、懐かしい「北上夜曲」を一緒に歌いましたね。奥様を亡くされてから初めて歌う気分になったとお話され、私はすっかり元気になられたお姿に安心いたしました。その時には、七月に米寿のお祝いをしましょうと申し上げたほどでした。それが、まさかこんな急なお別れをするとは思いもよりませんでした。

 先生に直接にご指導をいただくようになったのは、私が東北大学の大学院に入ったときからです。それから四〇年余り、先生からは多くのことを学ばせていただきました。

 先生は、常に原理、原則を忘れず、その意義を正面から訴えておられました。たとえば、最近話題となっている裁判記録の保存や利用の問題です。先生は、かなり以前から、訴訟記録の閲覧権を、裁判の公開原則の民主的意義を強調した上で、公正な裁判を受ける権利の保障との関連において、位置づけてこられました。裁判記録をいとも簡単に廃棄することが横行する社会にあって、記録を残し、それを利用することの民主的意義を説かれてきたのです。

 刑法学会大会におけるご発言も、印象的です。報告者に対する質問は、変化球無し。いつも清々しい直球勝負。まるで剛腕ピッチャーの姿を見ているようでした。時として原理、原則を疎かにしがちな私にとって、襟を正す良い機会となりました。まさしく、導きの師であります。先生と出会うことができ、本当に恵まれていたと感じます。

 お人柄からも、大切なことを教えていただきました。先生が感情的になって、怒りを露わにしたり、叱責したりするお姿は、ついぞ見たことがありませんでした。横暴な国家権力への怒りは示された一方で、ゼミの場でもどこでも、個人的に怒られるということはありませんでした。指導を受ける者の誰もが、そのお人柄に救われました。他人を悪く言わない。なかなか身につきませんが、これも先生のお姿から学んだことです。

 学恩には業績をもって応えていかなければなりません。先生のお姿を忘れることなく、引き続き精進して参りたいと思います。小田中聰樹先生のご指導に、深く感謝申し上げます。

 心からご冥福をお祈りいたします。

2023年6月13日
福島 至

(2023年06月20日公開)


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