移民がやってきた


移民がやってきた

本体1,800円+税

山村 淳平 著 / 陳 天璽 著

アジアから来た人々がコンビニや外食店で働いている——こうした光景は今や日常となっている。その中には、非正規移民、難民、無国籍者もいる。彼ら/彼女らは日本社会で、さまざまな困難にもめげず、たくましく生きている。彼ら/彼女らの目にうつらぬ生活をみる、とどかぬ声をきく。

着実に移民社会に移行しつつある日本社会で、私たちが彼/彼女らとどのように共生して行くのかその足がかりをあたえてくれる。

 

【はじめに】

目にうつらない人をみる、とどかぬ声をきく

 2000年代はじめのことである。移民のコミュニティがあらわれはじめた。ビルマ人による労働組合や少数民族団体、クルド人の民族団体、スリランカ人の団体、そしてカトリック系ベトナム青年団体などである。ふるくは在日コリアンのコミュニティがあるが、あたらしくやってきた移民がコミュニティをつくりはじめたのである。

 わたしは、それら移民の世界に足をふみいれ、コミュニティで無料医療相談をおこなってきた。相談にくるのは、おもに在留資格のない非正規移民や難民申請者たちである。法務省入国管理局(入管)からすれば、日本にいてはならない人びとである。

 入管に関連して、もうひとつユニークなコミュニティがある。このようないいかたは、入管はイヤがるだろうが、外国人収容所のコミュニティである。入管職員による暴力的な言動にたいして、被収容者たちが一致団結して抗議している。りっぱなコミュニティといってよい。わたしは被収容者の面会をおこない、医学的な意見書をかき、入管に被収容者の一時的な解放をはたらきかけている。

こうしたコミュニティでの医療相談、そして外国人収容所の面会をとおして、彼/彼女らのおかれている立場、日本政府の移民にたいする対応、そして移民の本国の状況などが、つぶさにわかってきた。さらに、日本と世界のうごきも、しだいにつかめるようになった。

 

 情報交換をしつつ、おたがいたすけあうコミュニティがつくられたのは、それだけ同郷人がおおくなったからである。東京の高田馬場や大久保周辺には、アジア各国のエスニック料理店や食材店がたくさん軒をつらねる。コンビニや外食店では、中国人のリーさん、ベトナム人のグエンさん、ビルマ人のアウンさん、ネパール人のネワールさんが名札をつけて、はたらいている。20世紀末にはみられなかった光景である。

人のながれは、世界的な規模でおきている。日本も例外ではなく、全世界から移民が日本をめざし、やってくる。いまや、世界各国の人びとと顔をつきあわせるようになった。日本社会の構成員が、すこしずつ変化しはじめているのである。

 

 そして2019年4月、入管は、法務省外局の出入国在留管理庁(入管庁)へとかわった。今後、技能実習生などあたらしい移民がたくさんやってくる。日本社会は、彼/彼女らにどのような対応をするのだろうか。

入管以上の巨大権限をもつ入管庁については、過去の経歴からおよその見当がつく。「出入国在留管理」という名がしめすとおり、これまで以上のきびしい出入国管理と在留管理をつらぬく。外国人収容所の暴力的言動はやむことなく、よりいっそうはげしさをます。

 ただ、ほとんどの日本人は、移民といっても実感がともなわないだろう。とはいっても、移民がふえてゆくなか、もはや彼/彼女らを無視するわけにはいかない。

 

 今後移民をむかえいれるにあたり、移民にかんする問題をしめしながら、定期的に情報を発信することはおおきな意味をもつ。入管に言葉たくみにあやつられないためにも、正確な情報をながす意義はある。そうしたかんがえのもと、各支援団体の協力をえて、連続セミナーをはじめた。2007年のことである。

 連続セミナーでは、日本にくらす移民のなまの声をとどけることにつとめた。そうすれば、そこに居合わせた者をつよくひきこみ、意識の底にかくれていた感性をひきだすにちがいない。耳をかたむければ、移民にたいする印象がかわるかもしれない。べつの世界がみえてくることだってありうる。それらは、書物からでは、けっしてえられない知識の糧(かて)となるだろう。

 いっぽう、語り手のおおくは、日本社会にうったえたくても、つたえる手段をもっていない。自分の話をきいてもらうだけでも、きっとはげまされるにちがいない。

 連続セミナーの語り手は、わたしがかかわっているコミュニティのメンバーからえらんだ。移民の話は、その場の雰囲気のなかで、そのときにかぎっての真剣一本勝負である。くりかえしはできない。惜しまれるのは、彼/彼女らの声がそのまま空にきえてしまうことである。なんとしてでも、この世につなぎとどめたい。つよくそうおもった。そこで、連続セミナーの内容をできるかぎり文章化し、雑誌や書籍などにあらわした。その一部が、本書である。

 

 本書でとりあげたのは、日本にくらすアジアの少数民族である。彼/彼女らは1990年代から2000年代のはじめに来日し、ながいあいだ日本でくらしてきた。日本での各少数民族数をかぞえれば、数十人から数百人、せいぜい数千人どまりである。ほとんどは、無視される存在である。彼/彼女らが声をだしたところで、かきけされてしまう。

 だが、多数派ではなく少数派、入管によって存在を無にされる人など、目にうつらない人をみる、彼/彼女らのとどかぬ声をきく。それによって、日本社会のしられざる一面をつかむことができる。そこから、社会をみなおすきっかけをあたえてくれる。本国の少数民族の状況を理解すれば、世界観がひろがる。わたし自身がそうであったように、移民の物語をきけば、きっと日本と世界がすこしずつみえてくるだろう。

 

2019年7月

山村淳平

 

【おわりに】

無国籍、移民、難民、そして、われわれ一人ひとりが社会の主役

 

 無国籍ネットワーク設立10周年記念 

 無国籍ネットワークが発足してから今年でちょうど10年になる。無国籍ネットワークとあゆんだ10年という年月をふりかえると、ワクワクしうれしいこともあったが、正直、つらく苦しいこともすくなくなかった。こうして10年という区切りのときをむかえるのは、なかなか感慨深いものである。

 わたしはかつて30年ほど無国籍だった。両親は中国での内戦により台湾へのがれ、いわゆる難民の経験をしている。その後、親が台湾から日本に移住し、わたしは移民二世としてそだった。本書で触れられている、無国籍、難民、移民の一つひとつの語りはわたしにとっては他人事ではなく、共感するおもいが多々ある。

10代のころ、自分が無国籍であることを正直あまり理解していなかった。あえて他人にはなすこともなかったし、うまく説明できずにいた。自分が当時もっていた身分証明書に「国籍:無国籍」と記載されていることで、嫌なおもいをしたことがあるのは第3章でふれたとおりである。まわりの人にいっても、誰もがみな、ちんぷんかんぷんで「無国籍って、どういうこと?」と不思議がられることがおおかった。一般の人は、国籍についてでさえ、普段あまりかんがえることがなく、ましてや無国籍の人がいるなんて想像もしたことがないからだ。

 無国籍がゆえに、自分でかかえている悶々としたおもいを誰に相談すればよいのかわからず、問題がおきてもどこに救いの手をもとめたらよいのかわからなかった。たかい壁にかこまれ、出口がみつからない迷路でただただ走りまわるようなおもいをしたのを、いまでもまだおぼえている。あのころ、自分の気持ちを共感してくれる人、話をきいてくれる人、相談できる窓口がほしかった。

 自分が移民や国籍の研究をすることになり、『無国籍』(新潮社、2005年)を出版したのち、「自分も無国籍なんだけど……」や「知り合いに無国籍がいるのですが……」など個人的に相談をよせられることがふえた。無国籍のことをもっとしりたい、もっとしってほしい、そして相談したいとおもっている人はすくなくないことを実感し、2008年11月に「無国籍者からみた世界─現代社会における国籍の再検討」を開催し、そこにあつまった当事者や支援者など有志により、2009年1月無国籍ネットワークが発足した。その後、国内のみならず、海外とのコラボレーションで無国籍のケースを解決したこともあれば、国際シンポジウムの開催やドキュメンタリー番組の制作にもかかわった。また、無国籍者のケースを一つひとつ解決するにあたり、弁護士や行政書士、医師、そして心あるおおくの人たちのねばり強いサポートにささえられた。

 あれから10年、無国籍ネットワークは、無国籍の人々の実態を社会につたえ、そして、無国籍の人々が自分の胸のうちをかたり、かかえている問題をいっしょに解決できるよう、当事者に寄りそった活動をつづけている。

 この度、山村淳平先生のお力をかり、実質2~3年がかりで企画・運営してきた連続セミナー「日本にくらすアジアの少数民族─マイノリティをとおして国籍をかんがえる」も、まさに無国籍ネットワークの活動理念に合致した企画であり、活動の結晶のひとつである。無国籍ネットワーク設立10周年という区切りの年に、こうして無国籍ネットワークの活動を一冊の本にまとめて皆さんにつたえることができるのをとてもうれしくおもう。

 これも、連続セミナーを企画してくださった山村淳平先生はじめ、自分のライフヒストリーを共有してくださった無国籍の友人たちのお蔭である。また、無国籍ネットワークの運営委員の献身的な努力がなければ実現しなかったであろう。会員や参加者のみなさんの励ましの言葉やあたたかいサポートにもふかく感謝したい。

 そして、本書ができあがるまで協力していただいた松本浩美さんと木下郁さんにも、この場をかりてお礼申し上げる。本書の出版をこころよくひきうけてくれた現代人文社の成澤壽信さんにも、感謝している。

 

なまの声へのこだわり

 本書におさめた連続トークセミナーで、当事者のライフヒストリーやなまの声にこだわった理由は、「無国籍の人が身近にいる」こと、「無国籍が他人事ではない」ということをしってもらいたいためである。無国籍は、けっして見しらぬ地のはなしではない。複数国籍や無国籍など、国籍に関連した問題は人の移動が頻繁化しているこのグローバル社会において、いつでも自分や自分のまわりにおこりうる。無国籍者のおおくは、移住、移動と関連しており、近代にはいって形成された国民国家制度とふかくかかわっている。無国籍は、国家システムの形成によってつくられた国籍という制度の裏返しとして発生している現象なのだ。

国家システムに安住しているわたしたちは、しばしば、無国籍者を見おとしがちである。だからこそ、あえて無国籍者のなまの声をとどけることで気づいてほしいとおもった。また、社会のマイノリティである無国籍者にも自分のおもいをかたる場をもち、自信につなげてほしかった。そしてその声をとおして、再度、個人と国家の関係、そして国籍を再考することができればとおもったのである。

 

ひとつの国では片付かない生い立ちこそグローバル時代のダイヤモンド

 日本でうまれそだった移民二世の無国籍であるわたしは、「日本にいたら、いつまでもマイノリティあつかいされる。それなら、日本をはなれ、あたらしい人生をきりひらこう」とおもい、大学院時代は多民族社会であるアメリカにわたった。そのころ、「Where are you from ?」ときかれることがふえた。その返答として、自分の民族的な出自をこたえたらいいのか、それとも、自分がすんでいた国である日本とこたえたらいいのか、もしくは国籍をこたえたらいいのかわからなかった。なかなかすっきりとしたこたえを提示することができず、どうすればありのままの自分を理解してもらえるのか、そして自分のアイデンティティについてなやんだ。

 この本におさめられている一つひとつの語りからも、ひとつの国ではかたることができない人、ひとつの国の枠にはおさまらない人がふえていること、そして彼/彼女らの複雑なおもいがえがかれている。自分を国の枠組でかたるよりも、むしろ自分の個性を尊重してもらいたいとおもっている人はおおい。複数の故郷をもち、どちらにも愛着をもって生きている人はおおい。そして、そうした人は、今後、どんどんふえつづけるだろう。

 実際、そうした複数の土地に愛着をもっている人々、なかでも特に、無国籍者や移民二世は、グローバル社会におけるダイヤモンドの原石である。国家、そして社会はそれにはやく気づくべきだ。近年、移民にたいしてヘイトスピーチやヘイトクライムなどのうごきがあるが、むしろ、マイノリティをいかに社会の力にするのか、移民がもつバイタリティをいかに社会が有効活用し、ウィンウィンの構造にもっていけるかがためされる。

 いま、世界で絶大なブームをまきおこしている映画『ボヘミアン・ラプソディ』(ブライアン・シンガー監督、アメリカ、2018年)にも、移民二世がかかえる葛藤、そしてマイノリティだからこそうみだすことができた発想とバイタリティがえがかれている。おたがいの違いをみとめ、おたがいを尊重すること、そしてなによりも、自尊心を大切にするべきである。国家や社会は、個々の個性をつぶし、画一化するのではなく、個性をのばし、それを社会の原動力とできるようなあたらしいシステムをあみだすべき時にきている。

日本は、じつは多民族・多文化社会であることをみとめるべきだ。そして、複数国籍や無国籍をしっかりみとめるような国籍制度、そして日本語だけでなく、親の母語をも身につけられるような教育制度、また移民の人権を尊重する移民法や入管法など、改善すべき点はおおい。グローバル社会におけるダイヤモンドの原石を日本の輝きにかえられるような仕組みをしっかりとあみだすべきだ。それは、個々の尊厳をみとめ、個々の個性をみとめることからはじまる。

 これまで無国籍ネットワークでつむいできたこと、そこでかたってくれた移民二世の声から沢山のヒントがあると自負している。これからも、その種をまきつづけられたらとおもう。また無国籍ネットワークでは、学生たちが主催する無国籍ネットワークユースが発足し、写真展や映画祭など無国籍にかんする広報活動や、無国籍児の教育支援などの草の根活動をしている。こうしたユースたちをそだてることは社会においておおきな力になっていく、としんじている。

 この10年の活動、そして、本書の編さんをとおし、わかったことがひとつある。無国籍、移民、難民、そして、われわれ一人ひとりが社会の主役であるということだ。マイノリティであっても、いや、むしろマイノリティであるからこそ主役なのだ。わたし達、みんながチャンピオンであり、ダイヤモンドである。それをしんじて、一歩一歩あゆみつづけていくことが大切なのである。

 

2019年7月

陳天璽

(2019年08月08日公開) 


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