「人質司法」の呪縛
「理屈では黙秘はベストだとわかっていても、実際にそれを貫くことは想像した以上に苦しいものだった」——こう述懐する筆者は、逮捕当時登録4年目の弁護士であった。犯人隠匿教唆の被疑事実で横浜地検特別刑事部によって逮捕・起訴され、最高裁まで争ったが有罪判決(懲役2年、執行猶予5年)が確定している。評者は、ここでは詳しくは触れられないが、この件は刑事訴追すべきでない事件を立件したもので、無罪だと思う。
未決勾留は250日に及んだ。筆者は逮捕直後から取調べで黙秘を続けたためである。このように黙秘したり、罪を認めないと保釈が認められない裁判実務が現在、横行している。それを「人質司法」という。その間、家族とも一切面会できない接見禁止の日々が続いた。外界の人で会うことができたのは、弁護人だけであった。筆者はまさに人質司法を身を持って体験した稀有な弁護士である。本書は、その人質司法の呪縛から立ち治るまでの詳細な記録である。
第1章「しゃべらなれければ、終わらない」で、検察官の取調べの実態——被疑者の黙秘を崩し、自白を獲得するテクニックを描く。検察官の事前準備は周到だった。事件に関係ない中学時代の成績まで調べる念の入れようである。①人格否定にはじまって、②能力否定、③証拠をちらつかせる、④責任をあおる、⑤別の生き方を勧める——ことで、「自白すれば、調書を作って公判を小さく収めることで、我々(検察)も協力できる」と誘惑する。筆者は取調室で能面のような無表情を貫く。それはまるで「ハシビロコウ」そのものである。本書に、筆者が取調べの違法を訴えた国賠訴訟の法廷で再生された取調べ録画を見ることができるQRコードが付されている。
一般公開された取調べ録画をニュースでみた筆者の娘さんが、取調室でじっとしゃべらず動かない筆者を見て、「お父さん、ハシビロコウみたい」と面白そうにいったというエピソードが本書「おわりに」で紹介されている。書名はそこから生まれたのだろう。
横浜拘置所での拘禁生活は、取調室での長時間の取調べとあいまって、さらに筆者のこころを蝕む。第2章「時間と名前が消える部屋」から第6章「再会までの長い道のり」までは、筆者が克明につけていた獄中メモに基づいて獄中生活の実態を詳細にレポートする。
拘禁生活は、収入源がなくなることによる経済的不安、家族に迷惑をかけているという申し訳ないという悔悟の念が折り重なって、「この状態から一刻も早く脱出したい」という気持ちに筆者を追い込み、筆者は精神的なマイナス思考に翻弄される。そして、いつしか「再出発したいという」誘惑がこころに湧き出てくる。それは、「やむを得ない自白」へとじわじわと筆者を追い込んでいく。本書でその「魔の時間」が見事に再現されている。筆者はなんとかその状況に落ちる寸前で踏みとどまって黙秘を貫くこができた。読者は、本書によって、「人質司法」は体験した者しか理解がむずかしい過酷さを思い知らされるに違いない。
「獄中記」と名付けられて、留置場や拘置所の実態を明らかにした本はこれまでにもたくさんある。本書はこれらとは一味違っている。それは、筆者が弁護士であるため、要所要所に法的な解説がきちんとされていることからである。
本書のもうひとつの特徴は、勾留中に外にいる担当弁護人や家族が当時何を考えていたか、それぞれ立場から文章を寄せていることである。この立体的な構成で「人質司法」の過酷さがさらに見事に表現されている。担当弁護人が当時どう考え筆者との接見に臨み、弁護活動をしていたかが反省の弁とともにしたためられている。刑事弁護を志す弁護士にとっては、被疑者とのコミュニケーションをどうとるかを考えるうえで貴重な示唆に富む。
巻末にある「人質司法とは何か」では、そのメカニズムをあらためて分析する。取調べと処遇の相互補強の構造、そして勾留決定をする裁判官、違法な取調べを行っても責任をとらない検察官、劣悪な環境を許す刑務官が三位一体となってつくる相互無責任の構造が人質司法を半世紀にもわたって温存させていると指摘する。
筆者は、その改革は立法や行政にはもはや期待できないと断じる。そして司法へ期待を寄せる。粘り強い人質司法の違憲性を訴える訴訟、黙秘権を問う訴訟、取調べの違法を訴える訴訟、留置場や拘置所での処遇改善を訴える訴訟——これらを粘り強く続けていき、世論に訴え動かすことがベターだと解く。すでに弁護士有志による「取調べ拒否権を実現する会」が立ち上がって、黙秘権を実質化する活動がはじまっている。
評者も、日本の司法制度が一日でも早く、この人間の尊厳を壊す「人質司法」から生まれ変わるために尽力しなければいけないと、本書を読んで一層強く思った。
(な)
【関連記事:特集「STOP人質司法!」】
・第5回 江口大和の人質司法体験記(1)「きみは、人質司法の本当のおそろしさを知らない(上)──被疑者の心理学(前編)」
・第6回 江口大和の人質司法体験記(2)「きみは、人質司法の本当のおそろしさを知らない(中)──被疑者の心理学(後編)」
・第7回 江口大和の人質司法体験記(3)「きみは、人質司法の本当のおそろしさを知らない(下)——人質司法とは何か」
(2026年01月19日公開)